愛と覚醒を一緒に成長させるということは、存在の中でもっとも難しいことのひとつだ。人々はひとつを成長させることすら難しいと思う。だから通常は、人々は愛の道か、覚醒の道のどちらかを選ぶ。

だがその可能性を否定出来ないのは、覚醒と愛の間に本質的な対立関係は存在しないからだ。実際、私のここでの努力は、まさにシュンニョが尋ねていることに向けられている。私はあなた方に、あなたの愛とあなたの覚醒の両方において成長して欲しい・・ゾルバ(註、カザンザキス著「ギリシャ人ゾルバ」邦訳「その男ゾルバ」映画にもなっている)であることとブッダであることの両方で。

ゾルバは愛だ。ブッダは覚醒だ。ひとつで成長する方が易しいが、両方で成長する方が遥かに豊潤だ。そしてもし両方を成長させることが出来たら、マスターは最後の障害にはならない。それは愛と覚醒において、あなたがマスターとひとつになるからだ。

覚醒の道では、マスターは障害だ。ブッダが「もしあなたが道で私に会ったら、即座に私の頭を切り落としなさい」(註、禅語の「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於いて大自在を得、六道四生の中に向かって、遊戯三昧ならん」)と言ったのは、その為だ。それが覚醒の道の答えだ。というのも、ブッダの教えの中には、愛の場所はないからだ。

スーフィー(イスラム神秘主義)のような愛のスクールが存在した。スーフィーならこれに同意しないだろう。スーフィーは「道でマスターに出会ったら、彼とひとつになりなさい」と言うだろう。だが、もしあなたが私のアプローチを理解したら・・、それは少し複雑だ。私は、あなたの愛とあなたの覚醒が、共に手を取って進んで行くように努力しているからだ。

両方が共に成長すべきだと私が強調する理由は、愛の中で成長した人々は意識の究極の高みに到達することがなかったからだ。彼らは途方もなく存在を楽しんだが、エヴェレストのようにはならなかった、覚醒の柱にはならなかった。愛が彼らをより酩酊させ、覚醒を少なくした。そして覚醒の道にだけ従う人々は、砂漠のようにドライになった。何ひとつ、草も育たない。彼らの途上にはオアシスはなく、ますます乾いていく砂漠しかない。しかし、彼らは覚醒の最高の高みに到達した。

愛と覚醒の間に統合を生み出そうとする努力は、世界への私の貢献だ。なぜなら私は、あなたにゴータマ・ブッダと同じほどに覚醒し、かつドライではなくなって欲しいからだ。
私はあなたに、ミーラ(インドの女性神秘家)のようにもなって欲しい・・今日もなお比べるもののない歌を唄った彼女のように豊潤に。彼女は春の園のようだ。

そして私は、そこに何の矛盾も見出さない。どうして人々はひとつだけを選んで来たのか?彼らがひとつだけを選んだのは、ひとつを扱う方が単純だからだ。両方を扱うのは少し難しいが、それだけの価値はある。もしあなたがエヴェレストの頂上でバラを育てることが出来たら、あなたは新しいサニヤシン、新しい真理の探究者であるという私の夢を実現したのだ。そして愛と覚醒の両方が意味するものは、生を放棄する必要がないということだ。

愛が生を放棄することを妨げるだろうし、また覚醒は、あなたが世間の中にいてなおかつ世間の一部ではなく在ることを助けるだろう。私が見るところ、その両者は相互補完することが出来、私達は、その足が大地にあってかつその頭が星々に届くゾルバ・ザ・ブッダを生み出すことが出来る。両方を持てるというのに、なぜ必要もないのに貧しくし、ひとつしか持たないのか?

私はあなた達に、世界がかつて知った中でもっとも豊かなサニヤシンであって欲しい。
世界は二種類の人々・・愛の人と瞑想の人・・を知ったが、世界は一度もその両方を一緒に試みたことはなかった。この統合は新しい人間をもたらすだろう。この種の探究者にとっては、マスターはまったく障害ではない。

瞑想とはエネルギー現象だ。エネルギーの全ての形態について、ひとつ非常に基本的なことが理解されねばならない。「エネルギーは2極間を動く」・・これが、その理解を要する基本的な法則だ。これがエネルギーの唯一の動き方であり、これ以外の動き方はない。

それは2つの対極の間を動く。エネルギーが力動的になる為には、対極がいる。それはちょうど陰と陽の両極で動く、電気のようなものだ。陰極だけでは電気は起こらない。陽極だけでも電気は起こらない。両極が必要だ。その両極が出会えば電気が発生する。そうなれば、その電気が閃光を発する。

これは、あらゆるタイプの現象について言うことが出来る。生は、男と女の間で、両極の間で展開されてゆく。女性は陰の生命エネルギーであり、男性は陽の極だ。それは電気的なものであり、男と女があれほど互いに引き合うのは、その為だ。男性だけでは生は消滅するし、女性だけでも生はあり得ず、ただ死しかない。男女の間にはバランスが存在する。男女の間・・この2極、この両極の堤(つつみ)・・にこそ「生」という河が流れる。

どこを見回そうと、ひとつの同じエネルギーが両極の間を動き、自らのバランスを取っているのが分かる。この両極性は、瞑想にとって極めて意味深いものだ。なぜならマインドは論理的だが、生は弁証法的だからだ。マインドが論理的だと言う時、それは「マインドは直線的に進む」ということを意味する。生が弁証法的だと言う時、それは「生は直線的ではなく、正反対のものと共に動く」ということを意味する。それは陰から陽、陽から陰というようにジグザグに進む。その動きはジグザグであり、互いに相反するものを利用している。

だがマインドは線状に、単純な直線上を進む。それは決して反対のものへ移行せず、反対のものを否定する。マインドは「一」を信じ、生は「二」を信じる。だから、何であれマインドによって創り出されるものは、必ず「一」を選ぶ。たとえばマインドが沈黙を選べば・・人生において創り出される、あらゆる騒音にうんざりし、沈黙を決意すれば・・その時、マインドはヒマラヤへ行く。マインドは沈黙したがっており、いかなるたぐいの騒音とも関わりを持ちたくなくなる。鳥のさえずりでさえ妨げになる。木々を吹き抜けるそよ風も妨げだ。マインドは沈黙したい。それは直線を選んでいる。そうなると、正反対のものは、全く否定されなければならない。

だが、ヒマラヤで暮らすその男は・・沈黙や静寂を求め、他者や反対のものを避けているその男は、死んだように生気がなくなる。彼は明らかに鈍くなる。静かになろうとすればするほど、ますます鈍くなる。なぜなら生には正反対のものが、その挑戦が必要だからだ。

2極間に存在する、異なったタイプの静寂がある。第1のものは、死んだように生気のない静寂、墓場の静寂だ。死人は静かだが、あなたはまさか死人にはなりたくないだろう。死人は完全に沈黙している。彼を妨害出来る者はいない。彼の集中は完璧だ。彼のマインドを惑わすことは出来ない。彼のマインドは完全に固定している。たとえ世界中が狂ったように騒ぎ立てても、彼は「集中」したままだ。だがそれでも、あなたは死人でありたくはない。それを静寂と呼ぼうが、集中と呼ぼうが、とにかくあなたは死んでいたくはない。いくら静寂であろうと、死んでいたのでは意味がないからだ。

静寂は、自分が本当に生き生きとし、活力に溢れ、生命力に満ちている時に起こらなければならない。そういう静寂なら意義がある。だがその静寂には、全く次元の違う質がある。それは鈍くなく、生き生きとしている。2つの極の間の精妙なるバランスだ。生きたバランス、生きた静寂を探求する人は、ヒマラヤ山脈と世間の、両方に行こうとする。騒音を楽しむ為に市場へも行くし、静寂を楽しむ為にヒマラヤの山々へも行こうとする。彼は両極間にバランスを見い出し、そのバランスの中に留まり続ける。だが、そのバランスは直線的な努力では達成出来ない。

禅の「無努力の努力」という方法が意味するのは、それだ。禅は矛盾した語彙を用いる。「無努力の努力」「門なき門」「道なき道」といった風に・・禅は常に、即座に、矛盾した語彙を用い、その過程が直線的ではなく、弁証法的だと暗示する。対極は、否定されずに吸収されるべきだ。対極を置き去りにしてはならない。それは使われなければならない。置き去りにすれば、それはあなたにとって、常に重荷になる。置き去りにすれば、それはつきまとう。それを使わなければ、あなたは多くのものを取り逃がすことになる。

エネルギーは、変換して使うことが出来る。そうなれば、それを使うことによって、あなたはより活気に満ち、生き生きとして来る。対極は、吸収されなければならない。そうすれば、その過程は弁証法的なものとなる。無努力とは何もしないこと、アカルマ、すなわち無活動、無為を意味する。努力とは多くを為すこと、カルマ、すなわち活動を意味する。その両方がなければならない。多くのことをしながらも、その行為者であってはならない。そうすれば、あなたはその両方を達成する。

世間の中へ入って行きなさい。だが、その一部であってはならない。世間の中に住みながらも、世間を自分の中に住まわせてはならない。そうなれば、対立や矛盾は吸収されている。それが私のしていることだ。ダイナミック瞑想は、ある意味では矛盾だ。ダイナミックとは、努力、多くの努力、絶対的な努力を意味する。そして瞑想とは、静寂、無努力、無為を意味する。だからダイナミック瞑想を、「弁証法的瞑想」と呼んでもよい。


OSHO

生は極端の集まりで構成されている。生とは両極端の緊張だ。真ん中に永遠に留まるということは、死を意味する。中道とは理論的な可能性に過ぎない。時には真ん中にあることもあるが、それは単に通過点としてだ。中道にあることは静的な状態ではない。それは動的な現象だ。だから左から右、右から左へと動き続ければいい。それこそが真ん中に留まる唯一の方法だ。

極端を避けないこと、そしてひとつの極端を選び取るのもやめることだ。両方の極に開いていなさい・・それがコツ、バランスを取る秘訣だ。ある時はすっかり幸福になって、またある時は徹底的に悲しみなさい・・どちらにも、それなりの美がある。無選択でいなさい。そして何が起ころうと、どこにいようと、右か左か、真ん中にいようがいまいが、その瞬間の全なるままを味わいなさい。

幸せな間は踊り、歌い、楽器を奏で、幸福でありなさい!そして悲しみがやってくる時は・・悲しみは必ずやってくる。避けることはできない。もし避けようとするなら、幸福になる可能性そのものを破壊するしかない。昼は夜なくしては存在できないし、冬なくして夏はない。そして死なくして生はない。

この両極性をあなたの存在に深く浸透させなさい・・それは避けようがないのだから。唯一の方法はどんどん死に近づいていくことだ。死人のみが恒久的な中心に留まれる。活き活きとした人は絶えず動いている・・・怒りから慈悲へ、慈悲から怒りへ。そういう人はその両方を受け入れるし、どちらにも同一化しない。超然としていて、しかも深く関係している。彼は水中の蓮の花のように在る・・水の中にいてもなお、水がそれに触れることはない。

真ん中に留まろう、ずっとそこにいよう・・そうした努力それ自体が、あなたにとって不必要な心労を造り出している。永遠に中道に留まろうとする欲望こそ、最低の種類の極端だ。なぜならそれは不可能だからだ。

古時計のことを考えてみなさい。もし振り子をちょうど真ん中で押さえたら、時計は止まってしまうだろう。時計が進むのは、振り子が左から右へ、右から左へと動き続けるからに他ならない。振り子が真ん中を通るたび、ほんの一瞬だが、中庸の瞬間がある。美しいじゃないか!あなたが幸せから悲しみへ移るとき、ピッタリ真ん中に、全き静寂の瞬間がある。それも味わいなさい。そのすべての局面において生を生きることだ。そうしてはじめて、生は豊かになる。

そもそも、どうして真ん中に居たいなんて思うのだろう?私たちは生の暗黒面に怯えている。私たちは悲しみたくないし、苦悩したくない。しかしそれは不可能な話だ・・そうしたら歓喜の可能性もなくなってしまう。何世紀にも渡って、それが僧侶のやり方だった。ただ苦悩を避けるために、すべての薔薇を滅ぼす用意がある。しかしそれでは、その生は平坦だ。冗長で退屈だ。生気がなく澱んでいる。本当には生きていない。生きることを恐れている。

生は両方だ。それはひどい苦痛と大きな喜びをもたらす。それは同じコインの二つの面だ。一方を手放すなら、もう一方も手放さなければならない。たとえば、苦痛を手放して喜びをたくわえることができる、負を避けて正だけを得ることができるなど、途方もない誤解だ。そんなことは物事の本性からして不可能だ。正と負は避けようもなく一緒、分かつことのできない一体だ。同じエネルギーの二つの様相なのだ。

私を理解する人たちはその二つを両方受け入れなければならない。私はあなた方に、全く新しい洞察を与えている。すべてであれ!だからあなたが左側にいるとき、何ひとつ逸してはならない・・味わうがいい。左にいることにはそれ自体の美しさがある。右側にいるときには、それは見つからない。場面も違っている。そしてもちろん、真ん中に在ることにはそれ自体の静寂、平和があり、どんな極端の中にもそれは見つからない。だから、とにかくすべてを楽しみなさい。あなたの生をどんどん豊かにし、何ものにも執着しないことだ。

可能な限り、すべてのやり方で生を生きなさい。対立する一方を選ばないこと。そして真ん中にいようと努力しないこと。私はあなたに中道を教えない。私は全道を教える。そうしたらバランスはひとりでにやってくる。そのときそのバランスには、途方もない美と優雅さがある・・あなたは無理にバランスを取ろうとはしなかったが、バランスはやってきた。優雅に左へ、右へ、真ん中へと動いていくことで、ゆっくりと、バランスは、あなたのもとへやってくる。同一化しないままでいるからだ。悲しみがやってくると、あなたはそれが過ぎ去ると知っている。そして幸せがやってくると、あなたはそれもまた過ぎ去ると知っている。留まるものはない。すべては過ぎゆく。

たったひとつ、いつでも残るのはあなたの目撃だ。この「見ている事」がバランスをもたらす。その目撃こそがバランスだ。


OSHO