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今こそ韓国を知る(1)―日本の小学生に「李成桂」を教えよう

今こそ韓国を知る(2)―韓国のルーツ・李氏朝鮮ができるまで①

今こそ韓国を知る(3)―韓国のルーツ・李氏朝鮮ができるまで②

今こそ韓国を知る(4)―「李朝成立」の歴史でお茶をにごす韓国の教科書

今こそ韓国を知る(5)―韓国人が自国史を知るための「厚い二重の壁」

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では、少しずつですが「李朝500年」について簡単に流れを追っていきたいと思います。
『朝鮮王朝実録』の中身を簡単にでも追っていければいいのですが・・・まぁ今はとても無理っぽいので、いつか時間があれば。笑

私はこの一連のエントリーを「真の日韓関係」のために書いています。現在の日韓関係は、残念ながら嘘八百とタテマエ、恫喝と土下座、侵略と腰ヌケのみでできています。
この現実を改善するには相手の国のことを、少しずつでも、簡単でもいいから、知る必要があります。(もちろん、良いことは良いことだと書きたいと思います。)

毎度同じことを言っていますが、ソウルのうまい店がどうだのエステがどうだの化粧品が安いから旅行するだの、そういうことは「正しい日韓関係」にとってはクソの役にも立たず、韓国を知ったことには一切なりません。

いまの異常極まりない関係を正常な方向へ持って行くには、そうした安易で表面的な「売り込み攻勢」に応じるだけではなく、もっと根本的な部分に目を向ける必要があります。

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1393年2月15日、李成桂はシナ(明)の許しを得て、国号を高麗から「朝鮮」へ改称しました。

1394年、李成桂は自らに地位を禅譲した恭譲王を追放し、王の一族は皆殺しとなりました。高麗の旧臣らも大量虐殺され、土地は没収して国有化し、それらをオノレにとっての功労者らに分配しました。(←韓国の教科書にありましたね。)
また、高麗朝のもとで国教だった仏教は廃止されました。なぜならシナが宗主国であり、儒教を国教とする必要があったからです。

また、李成桂には8人の王子がいましたが、王位争奪をめぐり「骨肉相争」と呼ばれる権力争いを2度起こしています。
李成桂は7番目の子(芳蕃)を跡継ぎ候補と考えていましたが、議論の末に末子(芳碩)を跡継ぎとなります。しかしこの決定をめぐり再び内紛が生じ、5番目の王子(芳遠)は謀略により建国の功労者らを一挙に殺害、芳碩を廃位し殺害した・・・というのがザッとした流れです。


1398年、太祖(李成桂)が、2番目の王子である芳果に王位を譲ります。(定宗、チョンジョン)
芳果に王位を引き継ぐ意志は無かったようですが、上記の芳遠の強要があったようです。

1400年、太祖(李成桂)の5番目の子、芳遠が太宗(テジョン)として三代目の王に就任。
これは有名な話ですが、太宗は父(李成桂)が都に戻ることを願い勅使を送っています。しかし一人として誰も帰りませんでした。李成桂は芳遠を憎み勅使を全て殺していたのです。
現在も、韓国語では家出して再び帰らない人を「咸興差使」(ハムフンチャサ)と言います。家出というより、もっと軽く「もう遅い時刻なのに、彼はいつまで咸興差使なの?」といった使い方もされるようです。(ってどこかのハングル講座に書いてあった気がする←)

太宗は李朝の全盛期の一部をになった優秀な王だったとされています。民情を聞き、戸数を明確にし、中央集権体制を強固にしました。
しかし一方では徹底した「排仏崇儒」を強行し、次々に兄弟や敵対勢力を殺し、虐殺を行っています。


1418年、李氏朝鮮において突出した存在である四代目の名君、世宗(セジョン・太宗の三男)が22歳で即位しました。よく「ハングルを発明した世宗『大王』」などと呼ばれるので、耳にされたこともあるかもしれません。


世宗大王
(李朝・四代目 世宗『大王』と称される)


世宗は学問を好み、内政、外交、文化など各方面で成果をあげました。また即位と同時に「正音庁」を設置し「訓民正音」を創製しました。他にも太陽時計、水時計、天儀など科学器具を発明・制作させています。
ハングルの構造や新しい道具の発明推進などを見ても、非常に理系側の王様だったことが伺えます。

そして世宗は過去三代と違い、仏教に関心を持ちました。(まぁ悪い方の意味ですが・・・)
それまでは、確かに国是としては儒教が国教となっていたのですが、そう簡単に廃仏は進まず反対勢力も強硬だったのです。
しかし世宗の時代で宗派の統廃合、寺院の取り壊し(または廃止)、領地の取り上げなどが行われ、大きく廃仏政策が進みました。
ちなみに死ぬ間際には、弱気になったのか仏教に帰依するというちょっとダサい逸話もあります。

李朝では「お上」一人の意志により国が大きく変わりました。
それに対して、日本の江戸時代は将軍様がアホでもそれなりに安定していました。その証拠といってはなんですが、中学校や高校では江戸時代の政治的な説明はそれほど多くなく、文化的な分野で覚えることが多かったと思います。特に徳川9代目以降に至っては、多くの人は誰だったのかすらあまり記憶に無いでしょう。
その意味で「組織が単純」だった李朝は、常に大きな波に揺られることになります。

つまり李氏朝鮮は、少なくとも江戸「徳川」より遥かに人治社会だったのです。
三・四代目に名君が続いたことで(虐殺などはありましたが功績としては一応「名君」です)、李朝はそれなりの発展を実現しました。
僅かな期間で国の形が大きく変わるのは独裁人治主義の特徴です。それが良い方向へ転べばいいのですが、ロクでもない為政者の場合は一瞬で国が瓦解するということになります。

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いきなり話題を変え、少し『日帝』と韓国併合の話を挟んでおきます。

前回のエントリーで言語に関するコメントを頂きましたが、為政者にとって「母国語を解する外国人」や「母国語を解する反対勢力」は少ない方が良いのです。それは過去でも現代でも全く同様です。

例えば大英帝国がインドを統治(植民地化)した際、インド人は教育の機会を深刻なまでに奪われました。その識字率は8%程度となり、90%以上の国民が母国語すらまともに読めない国になったのです。

それを現代的感覚に当てはめて、ただ単純に「酷い!酷い!」と喚くだけでなく搾取する側の立場に立ってみます。
当時は猛烈に膨張した資本主義制度の中で、大英帝国はひたすら「利潤」をあげる必要がありました。そして、植民地の民はそのための道具に過ぎません。何も当時のイギリスを弁護する気はありませんが、そもそも当時の資本主義制度の性質としては海外に資源・原料・安い労働力を求める以外に道はなく、その道具に対して「施し」をする必要など全くありませんでした。つまりは死ぬまで労働を続ける連中に教育は必要無いということで、これが植民地に言語教育を施さない第一の理由です。

さらに、英語の識字率は2.4%となっていました。英語は母国語以上に「教育の必要」など無く、ほんの一握りの者だけが使うことができたのです。これも当然のことです。「(事実上の)奴隷ども」に対して、なぜ支配者側の言語を与える必要があるでしょうか。
「言葉が理解できた方が高度な仕事ができるはずだ」という意見は、平和ボケした現代日本人の考え方です。何もオフィスで複雑な事務をさせるわけではないのだから、労働者らに対しては、英語をマスターした超エリートのインド人を登用して監督させ、仕事をさせれば済む話です。(実際に資本主義列強国は、エリートの現地人を本国に留学させるなどしていました。)

言語的な断絶は搾取する側にとって大きなメリットがあります。まず何といっても騙すのが容易になり、さらには直接の交渉ができないため現地人との接触が極端に減り、人間的な感情が生まれにくくなります。これも植民地に教育を施さない大きな理由です。


世界的な競争に明け暮れる中で、そのような奇特なことをしたのは日本だけでした。
韓国人は「併合後に朝鮮語教育のカリキュラムが減った!!これは民族のアイデンティティを奪う侵略政策だった!!」と主張しますが、当時の『日帝』の方針は、思わず天を仰ぎ見たくなるほど甘いものであり、その結果が「宗主国の言語を教育する」という愚策に現れています。

何度でも強調しますが、搾取する対象に教育を与える必要はありません。

しかし『日帝』は、近代的な意味での「学校」と呼べるのが100校程度しかなかった朝鮮に、1945年頃までに5000もの学校を建設し教育を施しました。しかし韓国では、この5000校は朝鮮が建てたことにしており、しかも1910年頃には早くも5000校あったことになっていますが呆れるほどの嘘八百です。(嘲
教育費も朝鮮人は極めて安く、一方で在鮮日本人は非常に高い教育費を搾り取られ、逆差別を受けました。

また、先日も触れましたが「朝鮮人には簡単な初等教育しか与えなかった!!」という指摘も全く的を射ていません。まず、そもそもが「初等教育を与えた」という時点で当時としては希有のものです。そんな愚かなことをした宗主国は、日本以外、世界中にどこにもありません。
さらに、日本の内地ですら遥か高みにある憧れの的であり、超エリート層を形成するための帝国大学を何とソウルで1926年に建設し、日本人だけでなく韓国人も入学しました。1943年までに600人以上の韓国人が卒業しています。(日本人は約1200人。)

当時、韓国人に対して「差別が無かった」などとは言いません。
むしろそれは随所にあり、資料も多く残っていますし、哀しい出来事も多くあります。しかし内鮮一体などという「絵空事」といってもいいほどの甘い計画に、国力をまさに「振り絞る」ようにして突進していったのは事実です。
それを民間の末端に至るまで、一切の差別無く完全に実行できるわけがありませんでした。

「差別はあった!!」という指摘は、「ありましたが何か?」という程度のものでしかありません。一生懸命に事例を出して頑張っている人がいますが、差別は当然あったのです。むしろ「一切の差別は無かった!!」と主張する方が異常でしょう。
しかし、帝国大学を卒業した韓国人も含めて日本を動かす中心となっていったのは事実であり、それはまことに異常極まりないことでした。韓国人の国会議員も誕生していますし、軍の幹部にも韓国人がいます。これは、当時はおろか現代ですら異常なことです。

国家の大枠の方針としては、世界史上で最も強烈に「被支配者側」に対してラブコールを送り、文字通り「死ぬほど」貢ぎまくったのが『日帝』です。
その結果はご存じの通りで、殴られた上に棄てられたという悲惨なものでした。
そして2011年現在、韓国はヘタクソな国策で金を使い切った挙げ句、日本に対して「財布をよこせ」と言い続けています。

現在のような状態で、この国に関わる必要は一切ありません。


『日帝』に関する嘘八百が取り払われない限り、
韓国の自立は無く、正常な日韓関係も望めない!!
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