我々は日々老いと戦っている、時間とともに細胞の劣化だ。
これは現代においても未だ止めることはできないとされている。
現状で何とかしなければならない。
月曜日に上野動物園に連れていって一緒にクロッキーをして来ました。絵を描く超基礎のクロッキーを少しでも今からこの子に入れておきたいと思って時間のある時に連れて行きました。子の子の時間をなるべく有効に使ってあげたい。
力ではないと太極拳は言うが、やはり”勁”という力は必要で、逃げられない法則がそこには存在する。
楽に得られるものは無く、何でも匠を得ようとしたり人に感動を与えるものには必ず越えなければならない壁が存在する。
その壁を超えるもっとも簡単でポピュラーなものは”努力”であると思う。偶然にできたり、受け継いだり努力でも乗り越えられない物はある。しかし、それは自分のちからではない。
無き者には”努力”しかないのだと最近特に実感する場面が多い。
楽な方に流れても結局は何も身に付かずに終わる。
人間は死ぬまで何かと戦うのだろう。戦いから降りたら終わりである。
ゲームに似ているような気がする。
RPGというやつドラクエとか、結局はゲームの中で努力する…エンディングを見るだけならYOUTUBEで良いはずだけど皆何故か自分で見たがるのはYOUTUBEで見ても感動はないからだろう。
私の知っているやり方で、努力が楽になる方法がある。それは…
努力していると思わずに努力する。
どういう事だろう?
楽しんでできる事である。楽しいことはズーットやってられる。
私もそうで、ゲームや太極拳の推手はかなり長い間やっていられる。毎回の稽古では3、4時間くらいはやっている。(最近ちょっと疲れて来たけど)
好きな事とやりたい事が一致しない場合はその好きな事は非常に貴重な人生の宝物で大きな代価を支払わなければ、手に入れることが出来ない。それはつらいと思ってなお努力しなければ手に入らないと言う事で、かなりしんどい努力の形になると思う。しかし、これが手に入ると色々なものを得ることが出来るようになる。そして、人間は老いに追われている、努力がずっと出来るわけではなく、タイムリミットがある。
小さいころから英語を子供にさせるのはこの辺りに一理あるのだろう。
ウダウダとこんなことを考えるようになってきた、やだなと思う。
昔、あるがっこうの先生が「努力」なんかしなくていいと言われたのを思い出す、好きなら努力なんかしていない、楽しいことをずっとして生きている。現実的には人間であるからには、それが出来る人間はほとんどいないと言っていい。そのものに長けていても他の事に影響を受けたり、頂点に立っていても上には上がいるという強迫観念が襲って来たり、やることが無くなって虚無感に襲われたりする。
私が太極拳を選んでいるのも、もしかしたら太極拳では強くなるのが非常に難しいと言うのを何となくしっているからではないかと思う事がある。太極拳は相手に勝つことにいろいろなこだわりを持った武術である。空手をやっていた私が憧れたのはもしかしたら、太極拳のそういう部分であったかもしれない。太極拳の奥深くまでほとんど知ってしまった今となっては、その時の自分に忠告をしてやりたい気分で、何だかお高くとまった太極拳の全貌を教えてやりたい。
時間、努力のバランスを取ることは非常に難しい。
太極拳でもよく言う話だが、自分が馬鹿なときは自分が馬鹿かどうかわからない。もっともな話である。太極拳を健康でされている方々はある意味賢明であると言える。
太極拳や武術的に言うと相手を馬鹿押ししている間に方向転換はできない。その間に相手を叩けば確実である。これは推手で私がよく上げる例で人間は出した力をひっこめないと次の力は出ないので、出した時を狙うと良い。これもまた、時間との戦いである。
時間が欲しいです。
相手と触れた時にほんの0、3秒ほど相手の出方を見ることができたら、大体のことはできるに違いない。
結局、人間は頑張るしか何かを得ることが出来ないのであろうか。