ある下士官の見た日独潜水艦の違い | El Despacho Desordenado ~散らかった事務室より~

El Despacho Desordenado ~散らかった事務室より~

2015年1月4日から「Diario de Libros」より改名しました。
メインは本の紹介、あとその他諸々というごっちゃな内容です。
2016年4月13日にタイトル訂正。事務机じゃなくて「事務室」です(泣)。

ここに一冊の本があります。『不撓 日独潜水艦協同訓練時代を偲ぶ』と題された通り、この私家版本は著者の海軍下士官時代を中心にした回想録です。彼は機関兵から、志望だった潜水艦に乗り組んで最終的に機関兵曹長になりました。
そんな彼の乗り組んだ潜水艦の一隻が、ドイツから日本に譲渡されたUボート「Uー511」でした。1941(昭和16)年12月8日と「くしくも日米開戦の日に竣工」(p.84)した本艦は1943(昭和18)年5月にドイツはキール軍港を発ち、当時日本占領下にあったマレー半島ペナンを経て同年8月7日に呉に入港しました。ドイツからの航海中は「さつき1号」と仮称されていたこの艦は日本到着後の協同訓練の後、同年9月16日に「呂500」と改名しました。同艦の調査を通して得られた潜水艦大国ドイツの技術は、後に潜水艦はじめとする日本の船舶建造技術の向上にも役立ったといわれています。
本記事では同書を通して、日独潜水艦の細かいところに現れていた違いを見ていきます。

同書によれば呂500の要目は次のようなものでした。なお文中の漢数字はアラビア数字に直してあります。

基準排水量:750トン
満載排水量:1120.84トン
常備排水量:1007トン
常備全長:76.76メートル
常備吃水線長:75.76メートル
常備幅:6.7メートル
主砲:10.5×1(※1)
機銃:20×2、20×1(※2)
魚雷発射管:53センチメートル×6
魚雷予備:53センチメートル×8
機雷:42×8(※3)
軸馬力:4400馬力(HP) マン社製2200馬力(HP)2基
水中軸馬力:1000馬力(HP)
水上最大速力:18節
水中最大速力:7.2節
燃料:64.35トン
水上航続距離:18節4400浬(カイリ)、12節11000浬
水中航続距離:5節59浬、4節130浬
乗員定数:47名
内殻直径:4.40メートル
安全潜航深度:123メートル
航続日数:84日

本記事作成者注:
(※1)10.5センチ単装砲1門を指すと見てよい。
(※2)20ミリ連装機銃1基、20ミリ単装機銃1基を指すと見てよい。
(※3)どの単位を当てるべきか不明。ただ、本潜が属するUボートIXC型は魚雷発射管から敷設する機雷を積めたことが複数資料に書かれている。


この要目で軍事マニアがまず目を剥くであろう部分は、長距離航行用とされたUボートIXC型の基準排水量が1000トン未満だったという点でしょう。
当時の日本海軍は潜水艦に命名する際、排水量1000トン以上の艦に「伊」を、1000トン未満に「呂」を、500トン未満に「波」を、数字の前に付していました。このうち日本で活躍した潜水艦のほとんどは伊号潜でした。船は大型なほど外洋航行に耐えられるという一般論から見れば、日本海軍よりも小さな潜水艦を投入していたドイツ海軍は乗員に無理を強いていた、と結論できそうに見えます。これを傍証するのはUボートを「鉄の棺」として表現した各種戦記文学や映像作品でしょう。しかし潜水艦勤務をしていた日本海軍の下士官が内部から見ると、事情は少し違ってきます。

まず日本と異なる点として著者が挙げていたのは、ドイツの潜水艦は「飛行機と同様に操縦・運転とは整備は別」(p.91)だったという点です。つまり乗組員は帰投後上陸して、艦は整備員に委ねていました。この点、日本では軍艦として狭い潜水艦であっても上陸はなかなか許されませんでした(ただ、実態としては勝手に上陸する事が多く、士官の間でも暗黙の了解になっていたようです)。
こうした分業制のためか、日本の潜水艦にはあるべき機構説明書、機関取扱い説明書がありませんでした。日本の潜水艦と合わせるためか、著者は命令でこうした機密書類を作成しています。

Uボートの生活環境は劣悪と言われている、と前述しましたが、水問題については解決していたようでした。

「機械室に排気利用の覆水器があって、機械運転中は海水からも蒸留水が取れるようになっていた。排気熱の利用は合理的で、排気による覆水器の運転とともにタービン機を運転、加圧に依る機械給気の供給が計られるなど、機械の能率増進に繋がっていた。」(p.93~94)

また、機械室後部にはシャワー室もあったそうです。著者はじめとする日本潜水艦乗組員が水不足に悩まされたのとは対照的でした。

乗組員の勤務体系は、日本は三直制だったのに対しドイツでは二直制でした。

「一般に戦闘配置は総員のほぼ三分の一で配置する。日本では昼間当直二時間、四時間は休養と雑務や食事、夜間は三時間当直と六時間雑務と就寝時間、これに比し独潜は各三時間で交代、夜間は四時間で交代、当直勤務になる。」(p.95)

このためか、日本なら呂500と同規模の艦に70名以上配置するところを47名に抑えられています。一見して独潜の方が乗員一人当たりにかかる負担が大きいように見えますが、航海中の勤務実態から見るとそう単純ではありません。
日本では運転下士官がずっと立ったまま機械や運転員の報告に気を配りつつハンドル操作し、時に触手検査をする必要がありました。
これに対しドイツの運転下士官は腰掛けたまま計器を見て燃料ハンドルを握るだけでした。「特に片舷機械六シリンダーの排気温度は運転台の横にある個々の計器により、機械の燃焼状態は一目で知るようになっていた。」(p.95)
こうした負担軽減が定員数減をもたらし、結果として居住性の改善にもつながったようです。Uボートの士官室の隣には日本艦にはない下士官室がありました。ここでは各部の長たる下士官が常設されたベッドで休養できるようになっており、また各部の連携も長を通して常に取れるようになっていました。

計器を元に運転すると言うことは、計器が正確に機械の状態を知らせてくれるという事を前提にしています。事実、独艦では計器、ひいては機械への信頼が絶対であり、実際の信頼性も高いものでした。
日本の潜水艦なら「一行動終わると、兵員により厳重に各部点検が行われ、特に重要な燃料ポンプ及び噴油弁の調整は時々精密に行われた」(p.96)のですが、独兵は自艦にもあるそうした機器の調整方法を知りませんでした。そんなに調整しなくてはならないような機械をドイツでは作っていないから、でした。同じように軽合金製のピストンリングに耐磨環がついていないのも、ドイツにはそもそも磨耗する材質のモノがないから。日本では出港45分前に行う主機械の試運転、電池充電について尋ねても、そもそも試運転の必要がある機械をドイツでは作ってない、と独兵から返ってくる有様でした。
このように、日独間の基礎的工業水準は隔絶的でした。ドイツ人が遠い異国で見せた強がりとも受け取れますが、協同訓練に加わった時点で機械経験の豊富だった著者はスパナ一本にも金属の「材質の優秀さ」(p.96)を観て感嘆しています。著者は担当だったエンジンについて、機械の精密さを下支えしていたのはUボートに単一方式(ここではマン社製、いわゆるマ式)を一貫して採用した点であったと考察しています。

こうしてよく読んでみると、Uボートの強さがカタログデータに現れない部分に下支えされていた事が分かります。これを著者は「全てが計器によって機械的に戦闘できるドイツ海軍と、その多くが人力により戦闘する日本海軍の違い」(p.94)と評しています。日独海軍の作戦海域の広さや作戦時間の長短が違うと前置きしつつ述べられた勤務体系の問題は「潜水艦だけの問題ではなく、全海軍の問題ではないか」(p.94)とも。



こうした“ショック”を受けながらも各部一対一の協同訓練に励みました。急速潜航訓練で出した最短29秒は、日本潜水艦の40秒程度を大きく上回る記録です。著者はU-511が呂500として日本海軍に就役した後も引き続き乗り組みました。
各計器をつけて別府湾で深度100メートルまで潜航もし(日本製は75メートル)、急速潜航訓練も繰り返されました。また「駆潜艇の機雷攻撃の目標艦として駆潜艇訓練にも協力出動」(p.104)していますが、これはそれぞれ「機雷」は爆雷(潜水艦攻撃用の爆弾)、「駆潜艇」は海防艦(船団護衛用の小型艦)のことと思われます。1943(昭和18)年11月には「呉工廠で船体の一部解体調査その他種々に調査が行われ」(p.104)たのをはじめ技術調査や見学も複数回行われています。
その後、日時は記されていませんが、呂500が佐伯大入島に乗り上げた事件が発生しました。
その日の午後、佐伯に防空注意報が出て、解除も空襲警報にもならぬまま著者はじめとする大方の乗組員が上陸しました。その翌朝、桟橋ではなく島の漁港近くに乗り上げているのを発見します。当直の機械部下士官が後部クラッチの入ったまま試運転をしてしまったことが直接原因のようでした。

「潜水艦の主軸には主機械からスクリューまで二カ所のクラッチがある。前部は主機械と電動機(発動機)の間、後部は電動機と推進器の間にあり、潜航中は前部クラッチを『脱』として電動機運転し、機械航走の時は前後部クラッチを『着』として軸は一本の推進軸として運転する。試運転や充電の時は、電動機は発電機として後部クラッチを『脱』にして運転する。防空警報が出ると手軽く小運転ができ、またそのまま潜航もできるので前部クラッチを『脱』の状態にするのが常態である。
 同日は平常通り機械室では当然後部クラッチは『脱』と思い、前部クラッチを『着』として機械を始動した。ところが後部クラッチは『着』のままなので当然機械は進み出し、島に乗り上げたという顛末のようだ。」(p.105~106)

その後、陸からの離脱には相当苦労したようで、艦内の重いものを後部に移動して全力後進しても戻らず、夕方の満潮を利してようやく離脱できました。最前部に損傷していたそうですが、無事修理されたそうです。なおこの事件において関係者の間で責任問題が持ち上がったというのが、いかにも日本らしいところではあります。

この事件のあと戦局の悪化を受け呂500は佐伯湾から舞鶴港、七尾湾に向かいます。著者はそこで呂500乗組の任を解かれました。呂500は戦後の米軍接収を経て1946(昭和21)年4月30日、若狭湾にて海没処分されました。