香住漁港の徴用船 その1 | El Despacho Desordenado ~散らかった事務室より~

El Despacho Desordenado ~散らかった事務室より~

2015年1月4日から「Diario de Libros」より改名しました。
メインは本の紹介、あとその他諸々というごっちゃな内容です。
2016年4月13日にタイトル訂正。事務机じゃなくて「事務室」です(泣)。

陸軍による中国戦線への徴用とその顛末
陸軍による漁船の徴傭は1938(昭和13)年に始まりました。当時は日中戦争(支那事変、日華事変)勃発から数えで2年目、長期化と戦線拡大に伴う揚子江沿いの物資輸送に用いるのが目的でした。『戦う日本漁船』にもこの時期に「西日本の漁港からある程度まとまった数」(p.33)が徴用されていた事実が記されています。

この徴用において特筆すべきは陸軍が募集し、希望する漁業者側がそれに申し込む、という形だった点です。
ここで『香住漁協史』下巻の634~635ページに掲載されている、第一次募集にあたって陸軍側が提示した条件を見てみましょう。なおこの条件は1.を除けば第二次募集と同一であることが確認できます。なお5.については表になっていましたが私のパソコン能力不足からコロンで区切っています。「六〇馬力迄」以降の「備考」が空欄になっていますが、船員の規定は40馬力までのそれと同じであることを示唆していると思われます。


1.集合日時及び集合場所
 (1) 集合日時 昭和十三年四月廿五日
 (2) 集合場所 長崎県長崎港
2.任務の解除の場所及帰港に要する経費
 (1) 契約は一期間を六ケ月とし、期間満了後は更に契約を更新するか、帰港希望者は帰港することが出来る。
 (2) 東支那海の底曳網漁業の許可を受けて、現地で漁業を行う事が出来る。
 (3) 契約解除の地は現地(北支又は上海)と思われる。
3.乗組員の年令は十五才位にても支障ない。
4.乗組員の待遇及船体事故ありたる場合の処置
 (1) 乗組員は軍属として取扱われる。
 (2) 傭船期間中船体沈没その他の事故により、損傷したる場合は価格を評価して弁償する。
5.傭船料、給料は次の通りとする。
馬力別:総額:船員給料:傭船料:備考
四〇馬力迄:八五〇円:五四〇円:三一〇円:船員は六名
六〇馬力迄:八七〇円:五四〇円:三三〇円:
八〇馬力迄:八九〇円:五四〇円:三五〇円:
一〇〇馬力迄:一〇三〇円:五四〇円:四九〇円:
一〇〇馬力以上:一〇五〇円:五四〇円:五一〇円:


この徴用には兵庫県北部の美方郡から10隻が参加した他、城崎郡の港村(ミナトソン)漁業組合の15隻、口佐津(クチサヅ)村漁業組合の6隻(うち1隻が不参加)、竹野浜漁業組合の1隻、そして香住町漁業組合からは「さかゑ丸」1隻が参加しました。その後第二次(1938年5月24日付で門司港に集合)、第三次募集は飛んで、第四次募集(同年6月10日付で門司港に集合)に「栄進丸」が応募、参加し、陸軍省輸送部の所轄に入りました。
この同年に「機付漁船船主会」なる団体が東京で組織され、漁船徴傭の斡旋、手続きの代行、事故発生時の救済などに当ることになっていました。都合4回行われた募集で徴用された漁船は全国計256隻に達しました。

ところが、事態は漁業者側の想定とは違う方向に向かいます。陸軍が当初の契約を反故にし、期間を満了しても解傭に応じなかったのです。
前兆はありました。前掲の募集条件の4.の(1)に乗組員の軍属としての身分を保証する旨が記されています。ところが『香住漁協史』下巻に機付漁船船主会の尽力により1938年8月1日に乗組員の軍属として身分が保証されたとあります。つまり、この団体が働きかけるまで先の条件は完全な口約束だったのです。この当時から軍の行動が理不尽になっていたことがうかがえます。

『香住漁協史』下巻には両船船主が陸軍の担当部局に宛てた請願書が3通転載されています。
うち2通はさかゑ丸の船主のものでした。徴用と同年の1938年9月6日付の請願書には「6月から代船を建造し10月1日から始まる出漁期に合わせてこの新造船に熟練の漁師を乗せて漁獲成績を上げるつもりでした。そちらにある“旧さかゑ丸”の船体はどうにでもして良いので乗組員を返してください」という旨が書かれています。11月7日付の2通目に至っては「せっかくの新造船を無為に係留している有様です、そちらにいる水夫長を“旧さかゑ丸”船長にして今の船長一人だけでも職を解いて返してください」と懇願しています。どちらも至極丁寧な書きぶりでもって、漁業経営者としての焦り、憤りを隠しているのが行間から読み取れます。
この必死の懇願を陸軍運輸部は「当部徴傭船さかゑ丸船長解傭に関し歎願ありたるも目下軍属として命令に基き戦地に勤務中にして当分解傭の件詮議し難きにつき承知相成度」(p.648)と突き返しました。ちなみに通牒の本文はこの引用で全文です。
栄進丸の船主もほぼ同様でした。請願書の日付は1939(昭和14)年6月15日。半年で戻ってくるはずがまる一年徴傭されたきりだったことになります。船主本人は遅くとも2月までには解傭されるだろうと考えていたようです。この船の船主は船体の帰還を嘆願していました。当時建造中ながら折からの資材不足で滞っていた代船に機械を充用する、つまり部品取りにするためでした。ちなみに解傭されたのはこの翌年の1940(昭和15)年11月1日付で、この時修繕賠償金856円50銭が支払われたとあります。
このように、解傭をめぐるトラブルは漁業者側に深刻な経済的打撃を与えました。他地区の徴用船も同様の事態に陥っていたようです。

さて、請願書を扱う文で「代船」なる言葉が一度ならず出てきました。実は当時、漁業者、農林省、自治体の協力のもと漁船群の縮小と更新が図られていたのです。この漁業行政の動きが何を背景にしていたものだったのか、そしてその動きと時期的に重なったこの陸軍の漁船徴傭を漁業者側がどう見ていたのかを次回にて解説、考察してまいります。

ここでいったん、この徴用に応じた2隻の漁船のデータを挙げておきます。「総トン級」としているのは個人情報をぼかすため(漁船とは漁師の生活手段であり財産です)で、端数は切り捨てです。「進水年月不明」としてありますが、どちらも応徴の約10年前に建造されたものと推測されます。当時の機付木造漁船の寿命の相場が10年だったからです。この2隻のエンジンの種類は明示されていませんでしたが、焼玉機関でほぼ間違いないでしょう。懐かしい漁港の映像と共に「ポンポンポン……」と音が流れるアレです。乗組員の安否については次回触れますが、「根拠がないのが根拠」です。


さかゑ丸:19総トン級:進水年月不明:49馬力
1938年4月25日付で長崎港集合の陸軍第一次募集に応募、徴傭。
その後の船体の消息不明。
※1938年10月初旬時点で同名の代船が香住港にあり。
乗組員6名全員帰国?

栄進丸:19総トン級:進水年月不明:馬力不明
1938年6月10日付で門司港集合の陸軍第四次募集に応募、徴傭。
1940年11月1日付で解傭、修繕賠償金856円50銭を船主に支払う旨陸軍より通知。
その後の船体の消息不明。
※1939年6月15日時点で同名の代船が建造中。
乗組員6名全員帰国?(うち1名は病気で途中帰国)