はばら先生回想録・1 | k.i.o景

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デザイナー・枝松 聖のブログです。

11月18日、北里大学・市民大学「芸術創造の世界」第9回 一般教育部特別講師 羽原信義さん(アニメーション監督)による「TVアニメーションの制作過程」を縁あって受講してきました。

アニメーション製作会社・XEBEC代表取締役のひとりにして監督にしてアニメーターである、はばらさん。
「趣味がアニメで仕事もアニメ」な僕にとって、学生時代からの憧れのクリエイターであり大先輩でもある方です。

僕が運営しているファンサイトでは何かとお世話になっております。
この日の僕は「学生」。大学卒業以来の集中力で授業に臨みました(笑)。

アニメーション制作の最前線にいるはばらさんによるアニメーションづくりの紹介はとても興味深い内容でした。

カタイ「記録」というよりは、講座の紹介はんぶん感想はんぶんの「回想>録」という感じでレポートしてゆければと思います。

第1回です。

講義は90分。いくつかの観点から、アニメーション制作の
アレコレのお話が聞けました。

■漫画映画・TVまんがからアニメーションへ
 …現在のアニメを取り巻く状況

■TVアニメーションができるまで・TVアニメ編
 …OP映像などに出てくるいろいろな役職の紹介、解説

■オープニングのできるまで
 …実際にはばらさんが手がけたOP映像を観ながら、より具体的に
 アニメーションが出来あがってゆく過程を感じるコーナー

■質問コーナー
 …受講者のみなさまからの質問

■アニメーションをつくってみよう!
 …わずか8枚で「動いている!」感覚が味わえるアニメートの紹介

■仕事としてのアニメーション
 …はばらさんの仕事への想い

「アニメの現場で働き始めて27年!ベテランと呼ばれる年頃になりましたっ!
今日はよろしく!お願いします!」

文字に書くと結構すごい事実ですが、それをごくさらりと、カジュアルに語るはばら先生。講義はそんな感じであたたかく、受講している社会人のみなさまにもわかりやすい例えばなしを交えながら、テンション高く進んでゆきました。

ご本人いわく「漫談テイスト」とのことです(笑)。


■漫画映画・TVまんがからアニメーションへ

○「まんが」と「アニメーション」の認識。
…「TVまんが」と呼ばれていたものが、現在のように「アニメーション」という呼ばれ方に、「一般的に」意識が変わっていったきっかけとは?


 毎週放送のTVシリーズというジャンルを切り開いたのは手塚治虫先生原作の「鉄腕アトム」でした。アニメーションの制作工程がまったく世に知られていなかった時代は、TVの絵も原作まんがの絵も両方とも漫画家先生が描いていると思い込んでいるひとが多かったのだとか(はばらさんも親戚の方からは、手塚先生といっしょに仕事をしていると、思われていたそうです)。

なんとなく、本でやってるまんがもTVでやってるまんがも同じ「まんが」だという感覚が変わったきっかけ…「TVまんが」が「アニメーション」と認識されるようになった転機といえる作品、それが1974年に放送され、77年にブレイクした「宇宙船艦ヤマト」でした。 74年当時は人気が出ず、実は打ち切りでした。77年に劇場公開され「アニメブーム」となったのです。

この作品以降、こども向け(またはこども向けの枠の中で大人の価値観がじわりと見え隠れするような)が主流だったTVシリーズに、中高生までの、より高い年齢層をターゲットとした作品が増えていきました。
お話はもちろん、キャラクターもシンプルなもの、劇画的だったものからその中間にあたるような美形キャラ、美少女キャラなど、いわゆる「アニメ絵」として認識されるものやリアル系など、多種多様に。設定も凝ったものが増えていったりしてゆきました。
さらに、映像制作の技法もさまざまなものが開発されていったのですが…。

映像作品の世界の「それまで」をぬり変えるのは、いつも映像作品。

「ヤマト」劇場版は僕が生まれた年で、もの心ついた頃には世の中はすでに「アニメーション」という認識になっていました。
小学校高学年くらい、周りのみんながだんだんアニメを観なくなってきた頃、アニメーションを「好きなジャンル」として意識するようになったのは「ガンダム」など、いくつかの大きなうねりも過ぎたあとでした。
OVA作品がさかんだったのもこの頃でしたが、そこはやっぱり小学生。内容的にも経済的にも、「ちょっとオトナ」の世界の出来事でした。

そんな僕にとって、アニメーションというジャンルでの大きな変化を「体験」した出来事…それが「デジタル化」でした。

次の講義「アナログとデジタル」へ、つづく。