ぼくも素直ないい人になりそうな気がする!〜高架下のビオトープを見学した(その1)〜 | 大山顕の首都高エコマニア

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首都高の環境への取り組みを取材していきます!ときにはかっこいいジャンクションをご紹介することも!

ぼくの「構造物趣味」ゆえ、どうも「エコ」からテーマが離れ気味のこのブログ。しかし今回はひと味違いますよ!首都高の高架下にあるビオトープに行ってきたのです。

で、これがけっこう楽しかった。なんというか自分はいわゆる「自然と親しむ」マインドが薄い人間だと自認しているので、正直あんまり興味持てないんじゃないかと思っていたんですが。いやー、おもしろかったよほんとに。


↑埼玉にあるこの路線、


↑この高架の下に「ビオトープ」があるのです。


↑こんな感じ!

「なんだ、ただほったらかした荒れ地じゃん」と思ったあなた!ええ、ぼくもそう思いましたとも!ところがどっこい違うんです。

さて、そもそもビオトープとは何か。これがいろんな定義があるようで、説明がなかなか難しい。というか、ぼくも正確に理解しているのかというとちょっとあやしい。wikipediaによると『生物社会(一定の組み合わせの種によって構成される生物群集)の生息空間』となっている。うん、ちょっとこれだけではよく分かりませんね。ぼくもそう思います。

一般的な言葉の定義よりも、今回おとずれたこの首都高高架下のビオトープの機能として説明すると、「人工的な建造物によって分断されてしまうエリアに、本来そこにあった植物や水環境を置き、様々な生き物が生息する状態を維持する」とでも言いましょうか。

そう、ここはもともと沼地だったのが1728年から田んぼとして開発された場所でして。


↑まわりは田んぼ。

そういう場所に新しく道路ができて、農地が分断されてしまうのを、このビオトープを作ることで地域の生態系を維持するというわけだ。


↑現地にあった解説看板「もともと住んでいる野生の生き物たちの生育場所のことです」と。

で、前述した「ただのほったらかしではない!」とはどういうことかというと。一見むぞうさに見えますが、これらの植物はここらへん在来の植物を植えたもの。周辺に生えている樹木の種を集め、33種、2万本以上の苗木を栽培して植えたのだという。

そして真ん中にこれまたむぞうさに見える池は、もともと湿地だった特性を活かし、地下水と雨水だけで成立しているのだという。

つまり、いうなれば「もともとの生態系(に近い)を再現」ということなのだ。


↑高架下ビオトープの入り口にも「周辺の樹の種を集めて植えました」とある。


↑2007年にビオトープが完成して以来、いろいろな生き物がやってきて住んでいるとのこと。へー!

いざ実際行って見ると、アマガエルがたくさん。アマガエルかわいいよね。

こういう生き物も樹木のように、どこからかもってきて放したものなんですか?と聞いたところ
「いえ、虫や動物たちはよそから自然にやってきて住み着いてますね」とのこと。すごい。

以前、カリフォルニアにある噴水の演出・デザインする会社の人が言っていたことを思いだした。曰く「日本にやってきて、街を見て、日本人にはぼくらがやっているような『水のデザイン』はできないと思った。なぜなら日本人には水や植物に対するハングリーさがないからだ」。

彼は、建物がなくなって空き地になった場所が、ほったらかされただけで雑草が生えてきて、秋には虫が鳴く、ということに衝撃を受けたそうだ。「カリフォルニアでは一生懸命人為的に水を撒いて、植物を植えて虫を放さない限りこんなことは起こらない」と。

言われてみればぼくらは特殊な環境に住んでいるのかもなー、と思った。

そんな感慨をいだきつつ、一方でこのビオトープが「もともとの環境を再現」していると聞いて、ちょっと意地悪いことを思った。ぼくはあまのじゃくな人間なのだ。

つまり「もともと」ってなに?ってことだ。

というのは、前述したように1728年以前はここは沼だったわけで、その時の「もともと」とそれ以後の田んぼ化したのちの「もともと」は違うはずだ。さらに言えば人間がこの土地にやってくる前である数十万年前だかはもっと違う環境のはず(もちろん気候がそもそもまったく違うけど)。

そういう意味で、あまのじゃくなぼくは、よく世間で言われる「自然」というやつがマユツバに思えてならないのだ。たぶんぼくらがなんとなく思い浮かべる「自然」って実は里山の風景だったりして、すごく人間の手が入っているはずなのだ。その自然って、ほんとに自然?自然ってなんのこと?と。

だからこのビオトープが目指している「もともとの環境」に対してもちょっと斜に構えてしまったわけです。

だけどよく聞いてみれば、このビオトープは「自然」とは一言も言っていないわけですよ。むしろ整備した後、定期的に点検して手を入れている。外来種などを排除している。

このことにぼくはけっこう感動したわけです。おおー!やっぱり!と。たぶんもはや人間の手が入らない「ほったらかし」のあるべき環境っていうのは存在しないのではないか。誤解を恐れずに言うなら「人工でない自然はありえない」と思ったわけです。だからここで再現される「もともと」っていうのは田んぼ化されて以降の環境を人間が選んだというわけ。

うーん、なんか小難しい話でかつぼくの思い込みに満ちた感じですが、とにかくこういう試みっていいなあ、と柄にもなく感動したということだけお伝えしたい。

で、もうひとつの「あまのじゃく」があって、「じゃあそんな『もともと』を手をかけて維持する必要があるの?」っていう疑問(ほんといじわるだなー、ぼく)。でもこれも今回腑に落ちて納得したのです。

それは、近隣の幼稚園児を招いてここで体験教室的なことを行っていること。


↑みんなで虫を探したよ

これね、「ありがちー」って思うかもしれないけど(ぼくも思った)、今回一緒にやってみて、これは意味がある!って思った。なんか、このブログの取材続けていったらぼくも素直ないい人になりそうな気がする!

長くなったのでその「意味がある!」については次回。