甲斐犬 府中犬舎 怜の日記

甲斐犬 府中犬舎 怜の日記

甲斐犬、怜(レン 牝)の日記です。平成25年1月生まれで、これからの成長が楽しみです。

鹿蒜神社から鹿蒜川左岸を東に下ると、北陸街道(北陸道)と北国街道が合流します。今庄宿の南側に文政の道しるべとして現在でも残ってます。






ここから北へ進むと、すぐに燧ヶ城の登城口に着きます。愛宕山の尾根が日野川にぶつかり削られた隘路部です。






燧ヶ城は1183年、木曽義仲が仁科守弘らに命じて築いた城で、天正越前一向一揆の際は、本願寺の坊官、下間頼照が総大将として布陣しました。




街道沿いは古民家が多少残っておりますが、人通りはまばら…

北陸へ入るには、ほぼ、この今庄宿を通る事になります。なので、京へ上る時もこの街道を利用します。

元亀元年(1570年)から始まった信長包囲網の戦いは、信長の朝倉攻めに始まり、織田家は浅井·朝倉連合軍、六角氏残党、三好三人衆、本願寺、比叡山延暦寺、武田信玄等、足利義昭主導の反織田勢力と戦う事になります。元亀争乱の始まりです。
こう並べてみても、四面楚歌を通り越して、ドロ沼の戦いだったんだろうと寒気がしますが、包囲網陣営は足並みが揃わず、何度も信長を滅ぼす機会があったにもかかわらず、信玄の死をさかいに各個、撃破されていきます。
朝倉家も天正元年(1573年)、刀禰坂の戦いで壊滅的敗北を喫し、そのまま織田軍に越前奥深くなだれ込まれ、朝倉景鏡の裏切りにあい、殆ど抵抗する事なく滅びました。
8月20日、義景主従は景鏡の軍に攻め込まれ自刃、嫡男愛王丸、その母小少将、義景母光徳院は景鏡に捕らえられ、義景の首と共に保身の為に織田軍に引き渡されました。
元朝倉家重臣、前波吉継によって府中に引かれその後、丹羽長秀に引き渡され、8月26日、帰の里にて丹羽長秀の手の者に刺殺され、遺体は堂に押し込められ火をかけられました。

無惨に殺された朝倉愛王丸、享年4歳。
大名の嫡男と生まれた為に武士の習いとして生涯を閉じました。
憐れんだ里の者達は、霊を慰める為にお堂を建てたのが愛王堂です。

近所の人に愛王堂の場所を聞いたのですが、私有地にある為に地権者の了解がいるとの事。丁度今からその家に行くところだから聞いてあげると言われて、歩いてその家に向かいました。
が、結果は拝む事ができませんでした。
昔は北陸道沿いにあった愛王堂ですが、誰も世話をする者が居なくなった為荒れ果ててしまい、そこの家の人が自分の敷地内に移動して守りをしていると聞きました。頭が下がる思いです。そのお婆さんもかなりの年齢だったので、少し心配になりましたが…
一応、南越前町指定文化財となっています。

別にどうでもいい事ですが、府中から京に向かう丹羽長秀は、今庄から北陸道を通って敦賀に向かったのだとわかりました。
この数年後、信長から北陸を任された柴田勝家は、今庄から最短で近江に通じる栃の木峠の街道を整備しました。現在の国道365号線です。
昔の道って調べてみると面白いもんです。
官道でも本当に細い道なんですが、これでもまだましな道なんだと思うと、昔の人の苦労がよくわかります。