人として未熟な為、

 

発信できるように成長してからブログと向き合う必要がありそうです。

 

 

なんか、姪からメールがあって、「来年」のG.W.に結婚式を行うとのこと。

 

それについて「招待状を送ってもいい?」と。

 

このやり取り、なんの意味があるのか・・・。

 

「べつにいいけど、その時期こちらから行くには相当な難易度」と返した。

 

すると姪から「飛行機代の問題?宿泊滞在の問題?」と。

 

すかさず私は「全部。民族大移動の時期に、ディズニー人気アトラクションに並ぶような感じ」と。

 

すると、なんだかご機嫌を損ねたようで、「だから1年前に伝えているんだけどな・・・」とのこと。

 

年ではない、G.W.の話。

 

東京から外へ出るわけですよ、その時期は。しかも北海道と沖縄は人気の場所。

 

特に私的には、結婚式そのものには意味を感じる人間ではないので、姪が嫌なら私は出る必要性も感じない。

 

姪に好かれようとなんて、微塵も思ったこともないし。

 

そもそも、結婚式におめでとう感が強いほど、期待する要素が大きくなってしまう。

 

あえて言うなら「まぁまぁ、仲良くね・・・・」が精いっぱい。

 

自分の姪だけは、そうではないことを祈ったとて、現実問題、離婚率は今や3組に1組の割合。

 

更に言えば、不倫経験割合は、男性でも7割近く、女性でも5割近くいる。

 

現実問題、結婚の何がおめでとうなのか、私にはイマイチしっくり来ないのだ。


まるで、戦時中に赤紙が届いて、家族から「おめでとう」「バンザーイ」と言われていたのと同じ違和感だ。

 

それを「おめでとう」といえるとしたならば、やはり、一人が一人の人と結婚することのみが「是」とし、それ以外を「否」としている、二択の社会常識が変革した時だと思う。

 

綺麗ごとでは済まない。

 

もう、実体的な数字からして、体をなしていないのが日本の婚姻制度なのだ。

 

その度に、家庭裁判所は本当にご苦労様だと思うし、著名な方が不貞行為によって「ご迷惑とご心配をお掛けして・・」とメディアで謝罪をすることの違和感はハンパない。

 

だって、男性7割、女性5割が同じことをしておいて、「けしからん奴だ!」と叩いているのだから、ちょっと何を言っているのか分からない国民だ。

 

 

 

 

今日は、前々から私の思想に深く同意してくださっている方とのお話。

 

先月、死刑判決が出た裁判報道を見て、「先生だったら違う見解を持っている」と思い出していたとのこと。

 

実はこの方、ご主人が裁判官。

 

家では仕事の話は一切しないけども、奥様いわく「裁判は単なる事務仕事」だとの表現。

 

私の意見は簡単で、特に凶悪事件を起こす個人は、育ちの段階で大きなトラウマを持っている人が多いというもの。

 

そしてこのトラウマは、自分のせいで作り上げられたものと、そうでないものがある。

 

っで、このトラウマの特徴は、同じ事象に接した時、人生の中で何年経っても「急激な交感神経(闘争神経)のレベルが瞬間的に沸点に達する」という習性がある。

 

例えば、簡単なことだと、はるか昔の学校の発表会で、自分が大勢の生徒、先生、親たちの前で、間違えたことによって、恥ずかしい記憶をしたことがあったとする。

 

そして、数十年が経ち、電車の中でぼーっと考え事をしていた時に、その時の記憶を思い出したとします。

 

今、そこにその生徒、先生、親がいるわけではないですから、何も記憶だけ思い出して終わればよいのですが、困ったことに、過去の事で「手に汗を握り、顔が赤面してしまう」という「身体的反応」までもがフィードバックしてしまうのです。

 

実は、例の事件の死刑判決が出たときに、私はとても長いブログの記事を作成していました。

 

っが、やはり今の日本人には、まだ早い内容であると察し、ブログ投稿を諦めました。

 

おそらく大勢の人が「不快」に思われると思ったから。

 

自分のせいではないトラウマというのは、この失敗の記憶で赤面する以上に、交感神経の沸騰が起こります。

 

ですから、攻撃性を自制できないレベルに成るわけです。

 

やってしまってから「どうしてこんなことをしてしまったのか自分でも分からない」となる。

 

私はね、死刑は当然だという意見に特に反論はありません。

 

ただ、仮に私がこの犯人と、全てが同じ境遇で育った場合、私は絶対に違う生き方ができていたとは自信を持って言い切れません。

 

何故なら、今ではない事象を思い出すだけで、体の交感神経が昂り、顔が赤面してしまう反応は、私にも起こるものだからです。

 

事件そのものは、到底養護できるものではありません。

 

しかし一方で、この赤面反応のように、急激な交感神経の昂りを「過去と今」で切り離す作業に、なぜ国民は目を向けようとしないのか?

 

殺せ殺せと叫ぶだけで、なんら他人事。

 

まるで社会の必要経費の様に、「解決策はないから抑止力で刑期を厳しくすれば良いのではないか?」という意見がとても多い。

 

他国の歴史を見ても、量刑を重くしたとて、犯罪件数が比例して減少したことはありません。

 

何故か?

 

このトラウマによる過去との縛りは、動物的反応であり、意識的に処理できる問題ではないからです。

 

つまり、考えて→やめておこうという教育された脳の経路を通過しない。

 

そして、トラウマは過去から今の人生において、莫大な時間的空洞が存在し、そこに莫大なマグマだまりを持っているのです。

 

例えば、小学生の時に自分のことをいじめていた人が、喋りながら鼻を掻く癖があったとします。

 

大人になって、たまたま自分と折り合わない職場の先輩が、自分のことを説教する時に、鼻を掻く癖があったとします。

 

たったこれだけの癖で、マグマが一瞬で爆発してしまうのです。

 

殺すまでに至らなくても、異常な攻撃性をこの先輩に向けてしまう。

 

社会はもっと、事件がなぜ起こるのか、その本質について議論を深める必要があります。

 

 

 

 

 

日本の閣僚って、世界でも類を見ない程の高齢化なんですよね。

 

62.4歳。

 

調べてみると、アメリカも日本ほどではないが、平均年齢が高い。

 

最高齢1位が日本、2位が韓国、3位がアメリカ。

 

逆に、オーストラリアやオーストリア、オランダは40歳代なんです。

 

なんか、日本の政治家も、年寄が「やってます」って感じではなくて、若い人の後ろに回って欲しいんですよね。

 

若い人と年寄の間で絶対に競えないのは、「経験」です。

 

経験の差は、若い人には埋められない差。

 

なので、若い人に失敗も成功も、助言を踏まえて経験させてあげればよいと思うんです。

 

今は分かりませんけども、その若い人が将来、また若い人を支える側に回った時に、諸先輩方の仰ることを踏まえられるんだと思います。

 

そうやって積み重ねるバトンを、日本は財産として引き継いでいないから、毎回リセット型になっている。

 

あのね、年寄にも若い人の真似できない所があって、逆に若い人にも年寄りの真似はできない。

 

これを同一線上に争って、一体誰徳なのかな?って思うんです。

 

昨年、ドイツから帰化された日本人と話しましたが、50歳代でリタイアして、退職金とその後は年金生活だとか。

 

その方いわく、日本人とは違って、あちらでは「いかに早くリタイアして拘束されずに自分の好きなことに時間を使えるか」というのがステータスだとか。

 

「お金の問題ではなくて、家庭の経済状況に合わせて楽しめばよいんですよ」と。

 

釣りが好きな人は、安い竿でも釣れる魚で楽しむし、家だってボロ家を買って、自分で補修して何とか住む。

 

そういう事を、日本人は恥ずかしいことだと考えている人が多いとのこと。

 

確かに、過疎化している集落とか、最低賃金レベルでも買える物件は沢山ありますからね。

 

ちなみに、この方に「先生は引退されなくても地震を紐解いたりだとか、自分の好きなことをやって、楽しそうですね」と言われました。

 

ん~、そういうことなの?

 

好きかどうか、自分でも不明なんですが、たぶん独りぼっちに生活していても、生き方はまず変わらないかもな・・・。

 

本当に、絶対に死ぬという結末が人間なんですから。

 

 

なんか、チョコレートが沢山。

 

ここ2日間で8個くらい。

 

見事な菓子メーカーの戦略です。

 

ま、結構皆さん美味しいチョコレートを下さるもので、嫌ではないんですよ。

 

私の場合、あまり顔が広くないので、まだ現実的に消費できるくらいの量ですし。

 

ただ、なんでチョコレートなのか!という疑問は毎年のこと。

 

そもそも、いわれとしては、ローマのキリスト教聖職者のバレンタインが由来で、世界的には、チョコレートをあげるという文化は日本だけ。

 

通常は、食事とかプレゼントというケースが多いみたいですけどね。

 

ま、何せおごられるのは後々面倒で、チョコをあげるのはOKというこの感覚。

 

どうせなら、バレンタインという名前を変えてしまえば「恋人たちの日」ではなくなるので、受け入れられるんだけど、意味も行為も変えて、聖職者の名前だけ利用しているというのが凄いなと。

 

それで、宗教は嫌がるという国民性。