てにを舎の考具 考える日本語®

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日本語を学びなおしてみると、今まで気づかなかったルールや魅力が見えてきます。
少しだけことばに意識を向け、日本語について考えてみませんか。

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世知辛い世の中になったもんだ。

YAHOOニュースに載ったニュース記事。

市営バスの運転手が、たまたま乗ってきた奥様と終点に到着後、少しだけバスを待機場まで移動し、車内で買ってきた軽食をとったことで、減俸処分になった
というもの。移動の際、シートベルトをしていなかったらしいが、減俸の理由は、奥様と食事をしていたことなのか、シーベルト未着用なのか、分からない記事となっている。

もし、奥様との食事(軽食)が理由だとしたら、なんと心が貧しい処分なんだろう。

そんなことで浮かんだ言葉が

世知辛い

辞書によれば、「世渡りが難しい。暮らしにくい」「金銭に細かくて、けちだ。抜け目ない」
の意味を持つ言葉だ。

今では「世知辛い世の中だ」というように使われることが多いのではないでしょうか。

これは、抜け目のない人や抜け目のない人が多くなり、暮らしにくい世の中になったという意味になったようです。

まさに、今の私たちの状況を反映している言葉と言えるでしょう。

同じような言葉に「生きづらい」「暮らしにくい」があります。

許せるものの領域が狭くなり、ちょっとしたことでさえも許せなくなる。

そんな世の中をみなさんは望んでいるのでしょうか?


先月、大阪に出張で出かけた際に「使い方の指南」を受けた“しらんけど”。


関西特有の言い回しで、主に「確信しているわけではないけれど、とりあえず言ってみた。でも正しいか正しくないかは分からない」
といったニュアンスの言葉らしいです
。「まあ、言ってみたけど、責任は取りませんよ~」といった感覚の言葉でしょうか。
もしこれを標準語で言おうとすると「知らないけど」「分からないけど」。あるいは「本当かどうか確信はないけど」など、言い訳のようにも感じてしまいます。


ついでにこの「しらんけど」を調べてみました。
【weblio辞書】
関西弁あるいは特に大阪弁の中で「自分の見解には責任は持てない」旨を言い添える意味合いで用いられる言い回し。信憑性が高くない事柄や個人によって判断が分かれる事柄について断言を避けるニュアンスを追加する表現。

【Magician Daisuke Itoさんのブログ】

https://magiciandaisuke.com/?p=7636

Disukeさんのブログの中では、
1 情報が曖昧であることの伝達
2 責任回避
3 興味の度合いの提示
4 相手へのフォロー
5 あくまで私的な意見であることの伝達
6 オチへの免罪符


と分析しています。
中でも興味深いのは、6のオチへの免罪符という用法
関西特有の「オチ」をつける会話の中で、
オチをつけようとしすぎて、話を若干盛ることがあるようですが、その免罪符としての「しらんけど」。
「知ったかぶりでいろいろ話をしていた最後に、しらんけど」をつけることで、
相手からの「知らんのかい!」というツッコミでこの会話を終了させるという高度なテクニックもあるようです。

「知らない」はどちらかというとマイナスイメージの言葉ですが、逆手にとって会話を馴染ませる
「しらんけど」。

他言語に翻訳してもなかなか理解できない、とても奥深い日本語ではないでしょうか。

前回の更新からかなり年月が経ってしまいました。

 

ブログを作り始めた時は、日本語教師を目指していた時代。

それから間もなくして、実際に日本語教師として教壇に立ち、ベトナムや中国、台湾、シンガポール、ネパールの人々に授業を行っていた頃です。

 

それからいろいろあって、今は日本語教育から離れています。

けれども、仕事で海外に行く機会がとても多くなりました。

特にこの数年はインドネシアたタイに出かけています。

 

海外に行くとどうしても

「現地語」が話せるか、話せないか で得られる情報量が変わってきてしまいます。

「通訳」を通しての会話は、話の意図はわかりますが、ざっくりととなってしまうため、

消化不良になってしまうことも多々ありました。

 

このことを海外から来る人々に変えて考えると、「きっと同じように感じているんだろうなぁ」と

思います。

 

特に、日本語は「すべてを表現しない言語」です。

観光ならまだしも、今年から労働者としての受け入れが始まります。

 

定型化された日本語は事前学習で学べるでしょう。

けれども普段使っている「生きた日本語」は日本人との会話の中で学んでいかなければならないはず。

 

最近は日本人同士でも「会話が成り立たなくなっている」日本語。

私たちの母語であるこの言葉が外国人との会話でも使ってもらえるようになるといいなぁ~と。

 

久しぶりの更新に何をそんなことを考えました。

 

昨日、ニュースを見ていたら、ちょっとびっくりする表現が出てきましたので、
久しぶりにブログを更新しました。



国会での答弁です。
先日の台風被害の視察をした際、長靴を持参せずにおんぶされたことで非難を受けた内閣府政務官の話です。

「今回、私が長靴を持参せずして、あまつさえ秘書官に背負われて沢を渡ったということは、
大変、被災地の皆様の気持ちを逆なですることだということで、深く反省させていただいております
(TBS News-iより)


どの部分かというと、
最後の「深く反省させていただいております」。


この「させていただく」ですが、
NHK解説委員室(http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/201117.html )の中で
山岸弘子さんが、聞き手に違和感を与える表現として、5つ挙げています。


すっきり話そうよ型
だれを立てているの?型
だれに許可をもらったの?型
自分勝手すぎるよ型
「さ」はいらないよ型

です。


そもそも「させていただく」には、自分の行為は相手の許容範囲にあるという前提の中で、
相手に配慮しながら、自分の一方的な行動や意向を伝えるときに使うもの。


今回の「反省させていただいております」は

自分の行動に対して謝罪する気持ちを表わしているはずなので、


深く反省しております」でいいのではないでしょうか。

特にビジネスの場においては、「相手を敬う」「自分をへりくだる」「相手に配慮する」言葉がたくさんあります。


場面に合った言葉の使い分けはマナーとしてしてとくとよいでしょうね。

日本語の授業で、こんな設問がありました。


この映画どうだった?
うん、 (    )面白かったよ。
選択肢には、 あまり たいてい まあまあ まったく


もちろん、私たちは まあまあ が答えだとすぐに分かるでしょう。


あまりは、後ろに否定(ない)を伴い 面白さゼロではないけど、面白くなかったという気持ちを表わしますし、まったくも同様に後ろに否定(ない)を一緒に使い、面白さゼロということを表現します。


では、たいていはどうでしょう。


たいていは、ほとんどの部分というニュアンスを持つ言葉です。
ほとんどの部分や大部分という意味であれば、たいてい面白かったよ という答えでも良いのではないですか?
という質問を受けました。


そのとき、「はて」と考え込んでしまいました。


「たいていがなぜ、面白かったと結びつかないのか」と。


例えば、
例1 たいていの人が賛成しています。
例2 日本人はたいてい味噌汁が好きです。
例3 最近の映画はたいてい面白くない。


いずれも「ほとんど」という意味で使っています。


ここに共通するのは、「判断する条件や事実(経験からくる事実も)」があることです。

たいていの人→その場にいるほとんどの人が手を挙げている、投票結果など
たいてい味噌汁が好き→データや日本人の食習慣から判断して
たいてい面白くない→話し手個人の経験やコメントなどから判断して

ということから判断して大部分は という時に使う言葉だと言えます。


そう考えると、
問題の「(    )面白かったよ」は、その映画そのものの感想を述べる表現なので、データやこれまでの経験やデータに基づいて判断しているわけではないので、結びつかないと言えそうです。