遠い遠い夏。
その水族館は、海辺にあった。


当時大学生だった彼を、電話で呼び出した午前中。

寝起きの彼は、シャワーを浴びる時間だけちょうだいと受話器の向こうでそう言った。

1時間後、彼は私の待つ駅のロータリーに今にも壊れそうな赤いカローラでやって来た。

エアコンもない、左側のドアミラーが壊れていて使い物にならないオンボロカローラに乗って海まで向かった。

どちらが、「水族館に行こう!」と言い出したのかはもう忘れてしまった。

そのくらい遠い想い出。

とにかく窓を全開にして、熱いアスファルトの照り返しを含む風を感じながら、カーステレオのボリュームをあげて二人で鼻歌混じりにドライブをしたのを覚えている。


昼下がりの水族館。

平日でまだ夏休みの始まる少し前だったせいか、ほとんど人気のない館内。

ちょっと湿ったような空気の薄暗い廊下は、まるで時が止まったような感じがした。

四角いガラス越しに、ゆったりと泳ぐ魚たち。

私は、巨大水槽の中を泳ぐ熱いところに住む淡水魚が好きだった。

まるで化石のようなその大きな身体をほとんど動かすことともなくのっぺりと漂うその姿を見るのが好きだった。

そんな私を彼は、どんな風に思っていたのだろう?


2階建ての建物の屋上には、ペンギンがいた。

決まった時間にショーが行われ、ペンギン達がよちよちと滑り台を滑ってみせたりして観客から拍手をもらっていたりした。

そのペンギン達のいるところから少し離れたところに、海を見ることのできる展望場があってそこで海をみながら彼が言ったこと、今でも忘れない。


強い海からの風にあおられた髪が口や目の中に入る。

二人で屋上を囲む壁にまるでしがみつくかのようにして並んで海を見ていた。


「大学が終わったら、ここを離れようと思って。」


彼がそう言った。

耳の中で風がごうごうと音を立てていてよく聞き取れない。


「え?」


「ここを、大学が終わったら離れようと思っている。」


彼の顔を覗き込んだ私に、もう一度彼はさっきより少し大きな声ではっきりとそう言った。

それから彼は自分の実家のこと、そしてなりたい職業のことなどを話してくれた。

それをうなずきながら聴く私は、どうしようもない淋しさを感じていた。

気を抜いたら、ふっと涙が滲んできてしまいそうだった。

一生懸命、身体に力を入れていた。

それは、風に吹き飛ばされないようでもあったし、泣いてしまわないようにでもあった。

彼の描いている未来に自分の入り込める場所はない、そんな考えだけが強い風にも決して吹き飛ばされることもなく、ただ、そこにあった。

海も、空も、碧(あお)かった。

どこまでも、どこまでも碧かった。

せめて今この瞬間だけは、一緒に同じ場所で同じ海を見て同じことを感じていることだけは決して忘れないようにしよう。

力を込める身体に、更に力が入った。


・・・そこで、私の記憶はぷっつりと途絶える。

その後、どんな話をしてどこをどんな風にして家まで送ってもらったのか食事はしたのか夕方まで一緒にいたのか、なにも覚えていない。

笑っちゃうくらい、想い出せないのだ。

そのくらい彼の言葉が切なかったってことなのかな。


その水族館は、今はもう ない。