信頼を勝ち取りたい~無我夢中。
携帯の鳴る音がぼんやりと耳に入ってきた。
面白い夢を見ていたような気がするけれど、
どんな夢だったのかすっかり記憶から抜け落ちた。
携帯から響く声に、いきなり現実に引き戻されたからだ。
「どうしました?起きてますか?」
専務だ。
時計を見ると、いつもだったらすでに店に着いて、
客を迎え撃つ準備も整った時間だ。
「い・・・今すぐ向かいます!」
あたしは返事も聞かずに電話を切って、
顔だけを洗い、寝る前に準備しておいた
オシゴト道具を持ってタクシーに乗った。
確かに目覚ましの音は聞こえたはずなのに、
昨夜飲んだ睡眠薬は、いつもより重かった。
酒と抗不安剤を併用したせいかもしれない。
タクシーの中でメイクを施し、
ジャケットを脱いで、持参した濡れタオルで、体中を拭く。
腋下もブラを付けていない胸もスカートの中も。
運転手の視線なんて、この際どうでもいい。
つり銭も受け取らず、タクシーを降りて店に飛び込んだ。
専務は口をへの字に歪めて言った。
「田中様、すでにお待ちですよ」
謝るのもそこそこにあたしは個室に向かい、
服を脱ぎ捨て、股間だけをワッシワシ洗う。
ガーターを付けて編みタイツを履いて、下着を着ける。
必要最低限のタオルをたたんで、ドレスを頭からかぶって、
髪を適当にブロウして、フロントにコールする。
「お願いします」
「では、ご案内いたします」
大きく深呼吸をしたら、
今、はじめて空気が肺に届いた気がした。
--------------------
あたしの遅刻は、この一回だけだ。
電話を受けてからの30分間、
あたしの心臓はバクバクと勢いよく血液を押し出していた。
内臓が全部、食道を上がってくる感覚を
無理やりに飲み込んで、
ただひたすら、待っている客のことを考えていた。
絶対に遅刻なんてしない。
当欠なんて以ての外。
店と客からの信頼を、
自ら進んで失うようなバカな真似はしない。
店があってあたしがある。
客がいてあたしがいる。
信頼を築き上げるのは、簡単じゃない。
失うのは簡単。
取り戻すには、築くよりもっと多くの努力と苦悩を必要とする。
あたしは信頼を勝ち得るために、こんなにも無我夢中。
見捨てられないために、大切にされるために、
「明日から来なくていいよ」という言葉を聞かないために、
こんなにも無我夢中なのだ。
格好悪くてもいい。
バカにされてもいい。
哀れまれてもいい。
あたしは必死なのだよ(未来のあたしへ)。
--------------------
社会人としては当たり前のことだけれどね。
あたし飛び起きて客を迎えるまでの、
臨場感を書きたかっただけ。