とかく今回の芝居は、バンドみたいな感じなのかなとふと思う。

俺たち俳優はボーカル的な側面が大きい(そりゃ喋るからね)と思いきや、実はある瞬間にはギターだったりベースだったりドラムだったりを担わなくてはいけない。今回は。特に冒頭から前半、教育勅語カオスに行くまでは4人で繊細に音のコミュニケーションを紡いでいく必然があると僕は思う。それは出演者の4人が細かい神経を研ぎ澄ましながらも、大胆な決断を瞬時にしていかなくてはいけないので、個人差はあれど、極めようがない作業でもある。加えて本番の上演ではお客さんが目の前(超至近距離)にいる。これも大切な要素で、お客さんを劇世界に誘導し、やがて没入させたいのだが、それは言葉でいうほど生やさしいものじゃあない。極端に言ってしまえば毎日正解が違うということだ。だってお客さんはその回だけのメンバーなのだから。そういう意味でも序盤の繊細さは非常に大事だ。終盤にかけて劇全体にクレシェンドをかけていくためにも。ボーカルにしたって熱唱するのか、ブルージーに歌うのか、それとも囁くように呟くのか、様々選択肢はあるだろうし、ギターもここはリフを繰り返すのか、カッティングでリズムを演出するのか、それともアルペジオで音の隙間を縫うのか、でプレイはガラリと変わることだろう。

 


バンドはバンドでも演奏するジャンルはなんだろう?

TLMはジャズかな。そう、ジャズだ。ジャズにはテーマとソロが存在する。この辺は実際にジャズの演奏経験がなくとも傑作漫画『BLUE GIANT』を参照されたい。「君はソロができないのか?」「ソロとは自分の内臓を曝け出すものだ」「テーマが吹ききれてない」「俺のソロからいく」まさに今回のモノローグスに不可欠な意識だ。そういったソロがこの芝居は大枠で見ても全員それぞれ2回はあるし、そのソロの精度や密度は全体のテーマを踏まえつつ、己の演奏をどれだけ圧倒的にやり切るか、またそれを他の共演者に感じさせることが大事だ。そういう闘いを上演するべきなのだ。「お。今日あいつ漲っているな」「ん?昨日より元気ないな」とかそういうことに気づいて自分の芝居を微調整しつつ仕掛けられるか(同時に相手の微妙な違いや変化に気づけるか、それは何がどう違っているのか、さらにその変化はどういう狙いなのか)。そのためには今作だとそれぞれ1人が4つの部屋に分かれている状況なので、とにかく自分以外の部屋の物音、そして呼吸・声を「聴く」力がとても武器になる。これはどんな芝居でもそうだが、「聴く力」が演技には必要最低条件なのだ。受信があるから発信が生まれる。

 

そしてジャズは同じ曲でも演奏者が変わるだけでまるで別の曲になる。

『Round Midnight』をマイルス・デイビスが吹いてるのとジョン・コルトレーンが吹いてるのではまるで違うし、セロニアス・モンクが弾いてるのとではたまさか別物なのと同じように(もちろん楽器自体が違うのだが、しかし同じ曲でも演奏者次第で曲自体まったく表情を変えるのがジャズの面白いところでもある)。今回の独居老人・狢ヶ原正でいうと、ぼくが演じる正と大原くんが演じる正。両方観た方は自明だろうが、まるで違う印象/感想を抱くことだろう。戯曲や登場人物が共通でも演じる俳優が変わるだけでそれは別モノとみなしてよろしい。これは戯曲読解/解釈云々の話ではない。そもそも俳優の身体が違うのだ。前作『丘の上、ねむのき産婦人科』でも体感したことだが、同じ人物を違う俳優が演じることで演技はより多面的、多重構造になる。他の役に関しても同様で、ダブルキャストといっても4役の組み合わせが2パターン以上あるので、それもジャズのライブのように演奏者の組み合わせが日によって変わり、結果その場限りの演奏になるという感じだ。段取りは決まっている。台本も決まっている。台詞が決まっている。しかし芝居はその日だけのものになる。そういう実験に挑めるのが今作というわけである。

 


僕の持論として、俳優の身体はある意味楽器だと思う。

その人だから鳴る音、その人だから奏でられるメロディ、その人にしか出せないリズム、が必ずあるはずで、それが個性というものなのだろうと思うから。だとしたら、自分がどういった演奏ができるのかを身体感覚として感じられていないといけない(どう見えてるかはまた別だ。それは他者の視点を経由するややこしい話なのでここでは省く)。よく「あの人は器用だね」とか「あの俳優さんは引き出しが多いから」と言われる人がいるが、要はそれは体内にいろんな楽譜を持っていてなおかつ自分なりに演奏できる、ということに他ならない。そしてそれは演じる自分が把握していないといけない。少なくとも自覚しているのが望ましい。なぜなら演劇は再現可能でなくてはならないのだから。その上で、このシーンはこうしたいとかここは相手役とこういう領域に突入したいとか、狙いや願望を持っていなければ芝居に命は吹き込まれない。登場人物のこのシーンにおける目的は何か?相手をどうしたいのか?それを私たちは見つけることなくしては演技ができない。や、演技にならないと言い換えてもいい。で、その目的のレールに沿って【今】自分がどう芝居していくのか、を遊べばいい。……というようなことを試行錯誤して自分の形を見つけるのが稽古の時間なんだけどね。今回はそれがないので、本番中に稽古で試すようなことを次々ぶっ込んでいくしかなく、そういう意味で俳優本人のアグレッシブさ、マインドセット、適応能力が問われていることは間違いない。同時にそれは、俳優としての地肩を鍛えることにもなるのだろう。

 


なんだか言いたいことが散らかってしまったが、出演俳優4人+音響照明制作オペレーターのさき氏と共に、全体として85分前後のジャズアルバムを演奏し切るための工夫や作戦、を全体で共有して言葉を交わすこともしていないので、ここに書き記してみたくなった次第である。