昨日、映画「南京の真実」上映試写会へ行って来た。

正論に広告が載っていたことに加え、

上映前には会場近くでビラ配りによる宣伝なども行われており、

開場前から、7階から4階まで一般客が並ぶという状態だった。

会場は超満員であり、11万人はいないだろうが、

1000人ほどの人が映画を見たと思われる。

残念ながら会場に入ることができなかった人もいたようだ。


岡崎久彦元駐タイ大使や山谷えり子首相補佐官も

会場へ駆けつけ、挨拶を行っていた。

数多くの妨害を受けながらも実現させたというこの映画は、

アメリカ・中国で「南京大虐殺」をテーマとした

プロパガンダ映画が数多く上映され、

それに対し正しい真実を発信するために作られたようだ。


映画は三部作であり、

第一部の今回は国内編の「7人の死刑囚」というものであった。

死刑の日時が宣告されてから、実際に死刑執行がなされるまで、

約24時間の様子を丹念に描いている。3時間にも及ぶ作品である。



感想の前に、私の立場を明らかにしておきたい。

基本的に思想的に左翼ではありながら、

いわゆる「南京大虐殺」が

中国のプロパガンダの要素が強い可能性が高いと思っているし、

事件そのものが無かったとまでは信じていないが、

戦争という特殊な状態の中で、

通常なら殊更に取り上げられるほどの事件でなかった可能性はあると思っている。


そして、感想であるが、私としては三時間は長かったし、退屈だった。

それが正直なところである。

「南京大虐殺」について事実関係を正したところ、

映像やとりわけ最後のインタビューはかなり価値が高いと感じた。

しかし、「南京の真実」というタイトルながら、こういった部分はかなり短く、

「7人の死刑囚」の場面があくまでメインである。


家族へ手紙を書いたり、歌を詠んだり、

最期が近いというのに、誰一人として、その死を恐れることなく、

堂々としていて、潔い。

最期の水杯を飲むシーンや天皇陛下万歳、大日本帝国万歳と叫ぶシーンは、

かなりの時間が取られており、恐らくこの映画のハイライトなのだろう。


ただし、私はこの「7人の死刑囚」の場面を見ていて、あまりに長すぎると感じたし、

心が動かされることも無かった。

最近もしかして自分は左翼じゃなくて、右翼なのではないか。

そんな風に思った時期もあったが、やはり左翼なのだ。

少なくともこの映画を賛美する人たちとは決定的に違うところがあると感じた。


そもそも、東京裁判の判決により、7人が死刑となるわけだが、

東京裁判への不信感というのが製作者やこの作品の支持者にはあるのだろう。

当然私も、東京裁判は事後法による裁判だし、正当性はないと思っている。

しかし、それでも、例えば、東条英機の責任は、

実際戦争を回避しようとしていたとしても、立場上免れないと考えている。


恐らく、右翼と私の考えの決定的な違いは死に対する考えの違いから来ている。

私がこの映画に対し抱いた強い違和感は、

それなりの責任を持った(全員に対して何をしたかは把握していないが)人たちの死を、

綺麗に描こうとしているところにあるのだろうと思う。

東京裁判は間違っているし、死刑という処刑方法にも疑問がある。

だが、だからといって、彼らに罪がないとは思わない。


私にとっては、彼らが潔く死を受け入れたことや、

家族に対する強い愛があったことや、最後まで天皇を賛美したことなどは、

どうでもいいことなのだ。

過度に描かれていると思う人も入るのだろうが、

一般の人たちの犠牲にこそ、スポットライトは当てられるべきだと思う。

それも、美化などされずに。もちろん、この映画とは関係ないが。


言うまでも無く、私がこの映画にどの感想を持とうが、どうでもいいことだ。

もし、この映画が保守論者の人が、内輪で楽しむために作られたなら、

今回の映画は恐らく非常に良く出来ているのだろう。

だが、もし一般の人の認識を変えるため、という気持ちが少なからずあるなら、

私はこの映画の作り方は失敗だったと思う。


こういったプロパガンダ映画を作ることの是非はまず置いておきたい。

その上で、もし一般の人へ、そして世界の人へ、

伝わる映画を本当に目指しているならば、

7人の死刑囚にスポットライトを当て、

彼らが加害者であっただけでなく、被害者でもあったような現実を描くのは、

得策ではない、と私は強く信じている。

せっかくの「南京の真実」すら伝えることが出来なくなるのではないか。


監督である水島社長は「イデオロギーはできるだけ排除した」

という発言をなさっていたが、果たしてそうだったか。

私は、この映画がとてももったいないことになってしまうと危惧する。