3月11日(金)
少し、ブログを書く時間ができました。
セキトバこと私は岩手県大船渡市で内科開業医を営んでおります。
3.11 あの地震はまさに診察中に起きました。
突き上げる強い揺れの後、患者さん達を隣りの空地に誘導、そこで見たものは…
眼下に押し寄せる大津波…
私のクリニックは小高い丘の上にありますが、すぐ数メートル下の家がゆっくりと移動し、屋根が真っ二つに割れて濁流の中に飲み込まれていくのが見えました。
建物が壊れる凄まじい音、目の前を流されていく何十台もの車…
もし二回目の津波が来た時は一回目より大きな事が多い…
避難してきた人々、患者さん達、ウチの職員達に動かず、暫くココで様子をみるよう指示、「医師として今、何をすべきか」を混乱する頭で必死に考えておりました。
状況を見ながら職員を帰宅させ、県立病院へと向かいました。
救命センターが患者さんで溢れている事を想像し、応援に向かったのです。
既に数名の患者さんが救急処置を受けておりました。
私は救急トリアージのイエローチームに入るよう指示を受け、3人程の患者さんを診ました。
でも思った程患者さんの数が少ない…
こんな大災害なら一瞬にして数百人レベルの患者さんが来る筈…
道路という道路が寸断されており、携帯も全く通じず救急車も呼べない状況…
そう、
「患者さんが来たくても来れない状態」
そう判断しました。
「避難所に怪我人が集まっているかもしれない…」
チームリーダーの医師に避難所に向かう事を伝え、トリアージチームから外してもらい、K小学校に車を走らせました。
そこには小さな発電器が一つ。
薄暗い体育館には400名程の避難者で一杯…
責任者と思われる方に状況を聞くと具合の悪い者がいるが電話も通じず救急車も呼べないと…
急ぎ診察をすると ぐっしょり濡れた服のままのお婆ちゃん。
高熱を出しており、呼吸状態も悪く、意識も朦朧状態。
「すぐ搬送せねば」
居合わせた地区消防団の方々に協力してもらい、消防車にお婆ちゃんを乗せて県立病院へ。
手早く状態説明をして救急センターに預けてK小学校へ戻りました。
「いつも飲んでいる薬が流された」
「お薬手帳も流された」
まず薬をどうにかしなければならない…
それにしても…
多数の重傷者達はどこに避難しているのか?
消防、避難者の方々の話をまとめると…
津波から逃げ切れた人は走れるだけの体力を持った人。
逃げ切れず、津波に飲み込まれた人は絶望的。
もしかして重傷を負った方々は殆ど流され、絶望的なのでは…
K小学校の避難者の方々が落ち着いたのは夜半の3時頃。
クリニックに戻り、散乱した薬を懐中電灯で照らしながらかき集める。
余震のたびに体を固くさせながら。
心臓の薬、血圧の薬、頭の薬…
優先順位をつけ、薬のセレクトに集中する。
この訳の判らない切羽詰まった感覚。
以前にも経験した事がある。
何だっけ?
どこでだっけ?
思い出した。
東京のある大学病院の救命救急センターに所属していた時。
いきなり救急車が多数集まり、縮瞳と呼吸困難、意識障害の患者さんが次々に搬送されてきた事がありました。
そう。
それが。
地下鉄サリン事件でした。
さて、仕事の時間です。
行かねば。
次の更新はいつになるかわかりませんが…
お読みの皆様。
今回はコメントは書かないで下さい。
言葉では言い尽くせない出来事でしたから。
セキトバこと私は岩手県大船渡市で内科開業医を営んでおります。
3.11 あの地震はまさに診察中に起きました。
突き上げる強い揺れの後、患者さん達を隣りの空地に誘導、そこで見たものは…
眼下に押し寄せる大津波…
私のクリニックは小高い丘の上にありますが、すぐ数メートル下の家がゆっくりと移動し、屋根が真っ二つに割れて濁流の中に飲み込まれていくのが見えました。
建物が壊れる凄まじい音、目の前を流されていく何十台もの車…
もし二回目の津波が来た時は一回目より大きな事が多い…
避難してきた人々、患者さん達、ウチの職員達に動かず、暫くココで様子をみるよう指示、「医師として今、何をすべきか」を混乱する頭で必死に考えておりました。
状況を見ながら職員を帰宅させ、県立病院へと向かいました。
救命センターが患者さんで溢れている事を想像し、応援に向かったのです。
既に数名の患者さんが救急処置を受けておりました。
私は救急トリアージのイエローチームに入るよう指示を受け、3人程の患者さんを診ました。
でも思った程患者さんの数が少ない…
こんな大災害なら一瞬にして数百人レベルの患者さんが来る筈…
道路という道路が寸断されており、携帯も全く通じず救急車も呼べない状況…
そう、
「患者さんが来たくても来れない状態」
そう判断しました。
「避難所に怪我人が集まっているかもしれない…」
チームリーダーの医師に避難所に向かう事を伝え、トリアージチームから外してもらい、K小学校に車を走らせました。
そこには小さな発電器が一つ。
薄暗い体育館には400名程の避難者で一杯…
責任者と思われる方に状況を聞くと具合の悪い者がいるが電話も通じず救急車も呼べないと…
急ぎ診察をすると ぐっしょり濡れた服のままのお婆ちゃん。
高熱を出しており、呼吸状態も悪く、意識も朦朧状態。
「すぐ搬送せねば」
居合わせた地区消防団の方々に協力してもらい、消防車にお婆ちゃんを乗せて県立病院へ。
手早く状態説明をして救急センターに預けてK小学校へ戻りました。
「いつも飲んでいる薬が流された」
「お薬手帳も流された」
まず薬をどうにかしなければならない…
それにしても…
多数の重傷者達はどこに避難しているのか?
消防、避難者の方々の話をまとめると…
津波から逃げ切れた人は走れるだけの体力を持った人。
逃げ切れず、津波に飲み込まれた人は絶望的。
もしかして重傷を負った方々は殆ど流され、絶望的なのでは…
K小学校の避難者の方々が落ち着いたのは夜半の3時頃。
クリニックに戻り、散乱した薬を懐中電灯で照らしながらかき集める。
余震のたびに体を固くさせながら。
心臓の薬、血圧の薬、頭の薬…
優先順位をつけ、薬のセレクトに集中する。
この訳の判らない切羽詰まった感覚。
以前にも経験した事がある。
何だっけ?
どこでだっけ?
思い出した。
東京のある大学病院の救命救急センターに所属していた時。
いきなり救急車が多数集まり、縮瞳と呼吸困難、意識障害の患者さんが次々に搬送されてきた事がありました。
そう。
それが。
地下鉄サリン事件でした。
さて、仕事の時間です。
行かねば。
次の更新はいつになるかわかりませんが…
お読みの皆様。
今回はコメントは書かないで下さい。
言葉では言い尽くせない出来事でしたから。