「またその本を読んでるの。あきないわねえ。どうして男って、こういうのが好きなのかしら」
「それはロマンだからしかたない。格闘技は、男の本能にどこまでも火をつけさせるんだよ」
「勝手にやってって感じだけどね。私は暴力には絶対反対だわ。正当防衛以外ではね」
「俺もまったく喧嘩は強くないし、むしろ来世は鳩になりたいほどだ。オリンピックで羽ばたけるように」

数年前に刊行された、ある格闘家の人生を追う物語を読んでいる。700ページをこえる大著だ。

「太平洋戦争前に学生だった主人公の武勇伝が面白いんだよ。昔はやっぱり大らかすぎる」
「その言葉も最近は聞かないけどね。すぐに警察がきて止めるから。私はそのほうがいいけど」
「まあな。飲み代を踏み倒したり、ヤクザを相手に立ちまわったりなど、今じゃ考えられないな」
「知らないだけで、じつは結構いるかもしれないけどね。私はそんな理不尽なことをする人はダメ」

喧嘩沙汰で留置所へ一晩泊まることなど、今の社会人なら即クビだ。学生なら除籍になるだろう。

「それだけ世知辛くなったという証拠かもな。昔ならシャレですんだことが、許されなくなってしまった」
「それでいいんじゃないかしら。そういう昔を懐かしむことのできる人は、立場が強かったからよ」
「なるほど。たしかに踏み倒されりケンカで壊された店側からすれば、恨みしかないだろうからなあ」
「物語はつねに裏側を見なくちゃ、真実がぼやけるからね。推理小説マニアの私がいうから間違いなし」

そういう生き方は疲れないかと聞くと、そんなことはないという。裏読みすることがデフォルトだからか。

「へんな言い方はよして。私は弱い立場のことを考えたくなっちゃうの。傷つけられる人のことをね」
「じゃ俺とこうしているのも、その心が働いているのからなのか。すぐにでも踏み倒していいんだぞ」

バカね、と彼女が笑う。ツケがたまっているのは俺のほうらしい。男の本能が体で払えと言っている。