「そういや、最近はとくにテレビを見なくなったなあ。ほとんどオブジェになっているぞ」
「私は結構、見るけどね。旅番組なんかは面白いもの。疑似体験できるから」
「たしかに海外の壮大な景色は、モニター越しでも圧巻されるよな。時間と金さえあればなあ」
「それは言い訳よ。その思いが本気なら、いつでも行けるはずよ」

社会的な立場と責任がそうさせないとは、なかなか言いづらい。彼女の言葉にも一理ある。
ともすれば踏んぎりのつかない者のために、テレビという存在が価値を生みだしているだろう。

「俺も、そっち系の番組は好んで見ているな。海外系のグルメ番組は大いに酒の肴になる」
「あなたは食欲が優先するものね。日本にも未知の食べ物がたくさんあるはずよ」
「俺の老後は、日本全国食べ歩きにするつもりだ。グルメレポーターなんて天職だと思うよ」
「彼らのような表現力があればいいけど、たんにおいしいだけの感想じゃ難しいわ」

情報伝達手段がネットに置きかわったとはいえ、テレビの威光と存在力はすたれない。
そこでの登場人物はいまだに特別であり、それを担保する能力が必要である。
一般庶民が気軽に出演できない理由は、特別視される何かをテレビが持ち続けているからだ。

「普段から関心のない人も、ひとたびチラッとでもテレビに映ったら自慢するもんね」
「そうだよな。俺も昔、とある競輪場で観客として映ったときはビデオに撮ったもんなあ」
「あまり自慢にならない映りかたね。でも、記録にのこしたい気持ちはわかるわ」

自身を本当の意味で客観視できる媒体は、テレビに限られるかもしれない。
友人同士でのカメラやビデオでの撮影は、どこかしら被写体の意図を折りこんでしまう。
ところがテレビはプロの目をとおすことで、ありのままの姿がさらけだされる。

「よくいわれるよね、自分が思うより三割ほど太って映るって」
「それとおなじく、三割ほど醜く映るともいうな」
「そう思うと怖いわ。テレビに人工頭脳が付くようになったら、自動補正が働くのかしら」

それが愛情というものだ。当分の間、俺の目レンズは露出オーバー気味に設定しておくよ。