9月生まれの青空。 ~医療ケアのある子・ユズとの暮らし~

9月生まれの青空。 ~医療ケアのある子・ユズとの暮らし~

※2017年6月 ブログタイトル変更しました   2010年9月26日。重症新生児仮死で生まれてきた長女ユズ。点頭てんかん(ウエスト症候群)による後遺症と今も闘いながら、医療的ケアのある生活を送っています。

※これまでの経緯はコチラ へ移動しました。




2010年に生まれた娘(ユズ)と


初めての育児に奮闘しているママの日記です。




難病である「点頭てんかん(ウエスト症候群)」。


仮死状態で生まれた我が子は、


低酸素脳症によって生じた脳梗塞がもととなり


生後3か月で上記のてんかんを発症しました。




リハビリを続けていますが、


今のところ首すわり・体幹の維持など


基本的な運動機能の麻痺はほぼ改善していません。

(2014.12現在)




だけど…たとえ障害があろうと、我が子って、めちゃくちゃ可愛いのよ!!




ユズを産むまでは私も決して知ることのできなかった


障害児とその親の生活をオープンにするためにも


ちょこちょことブログを更新していきたいと思っています。




我が家は2015年、次女の誕生した年に、

今住んでいる家を新築した。

 

当初は次女の生まれる予定はなく、

4年待っても授からなかったために

「ユズに特化した家をつくろう」

を合言葉に図面を制作した。

 

限られた予算、

限られたスペースに、

大きなバギー(座位保持椅子)で移動しやすい家をつくる。

 

何年も準備した。

 

いろいろな情報を検索して、

リハビリの先生にアドバイスをもらって、

カッコイイ家の本を買って、

ユズに最適な間取りと機能美が両立した、

ユズがずっと暮らせる素敵な家をつくろうと奮闘した。

 

完成した家は、素晴らしい家だった。

 

扉は全て引き戸にし、

座位保持椅子をベッド状にしても

行き来しやすいような移動スペース。

 

風呂はユニットで選択可能な最大にして、

浴槽も脱衣所も広くした。

 

アパート時代、

2歳から脚をぶつけまくっていた風呂場とは

比べ物にならない広さの浴室。

 

万が一、ここに住み続けられない状況になったら

福祉施設にしてもらおうか、と提案できるほどだった。

 

 

そんなお気に入りの我が家に、

ゴミが散乱し始めたのは2018年くらいだっただろうか。

 

思いがけず授かった次女が3歳を迎える頃、

新生児時代はほぼ何も邪魔なものがなかったリビングは

モノと不用品で溢れ始めた。

 

心の病のはじまりだった。

 

 

夫は仕事と団体活動でほぼ不在。

 

家が汚くなる=私の責任

 

という構図に、ますます心は耐えられなくなっていった。

 

 

負の連鎖で積み上がる不用品。

 

ただでさえ多いユズの荷物に加えて

次女の通園用品など、

私のキャパシティを軽く超えた

ものの量で家が溢れた。

 

 

その時期は、周囲にもなるべく暗い面を見せまいと

ブログや実生活では努めて明るく振る舞っていた。

 

グチにして笑い飛ばせば、

家をきれいにする気力が生まれると思っていた。

 

 

そうではなかったのだと気づいた時には手遅れで、

その後の事故やいろいろな壁につながっていく。

 

 

 

そして、現在。

 

 

 

少しずついろいろな荷を下ろして、

ユズと、家族と、心のゆとりを取り戻しつつある。

 

 

長年もので溢れてしまったこの家を、

正常な状態に戻す時がきたのだ。

 

 

元々、ものが溢れていると頭がいっぱいになって、

余計に不機嫌になってしまうきらいのある私には

「ものがない状態に戻す」ことは

何より心が楽になるクスリでもある。

 

 

心が楽になる「陽」の連鎖が、

今はじまりつつある。

 

 

もう、またすぐに汚れてしまう一時的な片付けではなく、

平常に戻る時がきたのだ。

 

 

そんな気がする。

 

 

久々に、ユズとのことを書こうと思う。

ちょっとくらいはなし。

 

 

これまでのブログを読まれた方なら

ある程度はご存じかと思うが、

ユズは出産時の事故により脳症を負って

重度の心身障害児として生きてきた。

 

そんなユズにとって、

呼吸をすること

手足を動かすこと

表情を作って誰かに訴えかけること

食事をとって生命を維持すること

はとても努力しなければいけないことで

そうしたことの手助けを私がおこなってきた。

 

手助けの中には、

機械を使ってケアすることも含まれていた。

 

コロナで一般的に名前が知られることとなった

「サチュレーションモニター」をはじめ、

痰や唾液を吸い取るための「電動吸引機」、

吸引しても呼吸が改善しなかった時に使う

「酸素吸入器」、

胃ろうから食事を注入するための「注入機」、

上体を起こしたり褥瘡を防ぐための「電動ベッド」など、

あらゆる機械が身の回りにあった。

 

それら以外に、

注入するための用具や液体の食事、

吸引チューブ、吸引のための水、

消毒薬、毛布、おむつ、おしり拭きなどなど、

あらゆる必需品が身の回りにあった。

 

そんな環境でしか過ごすことができなかった。

 

 

そしてこれらは当然、外出時も一緒になければならなかった。

 

機械の多くは、外出用のコンパクトなものなどない。

家で使っているものをほぼそのまま、

外出用に荷造りして持ち出す。

 

注入用具やおむつなどの必需品も、そう。

 

多くの方が想像しやすい例として挙げると、

新生児期のお出かけの必需品を持ち歩いている感じに近い。

 

新生児のお出かけ必需品ビッグサイズ

    +

病院で入院した時に付けられるモニタの色々

 

を持ち歩かなければならないのだ。

 

 

それも何年も。

 

ずっと。

 

 

 

だから私たちの外出は、いつも小さな引っ越しのようだった。

 

月一回の受診は必ず行かなければならない。

毎日飲んでいる薬をもらわなければならないからだ。

 

月一回、小規模とはいえ毎月引っ越ししているとしたら

皆さんには「大変」だろうか。

それとも「ぜんぜんよゆー」だろうか。

 

私には、「とても大変」だった。

 

 

その「とても大変」な外出を月に1回こなしたら、

その月はもう、ユズを連れては動けなかった。

 

 

毎日24時間、我が子が生きるために気を張って、

言葉を話せないユズに話しかけて、

たまに襲ってくるどうしようもない不安や悲しみと向き合って、

どうにかやり過ごしてのろのろと家事をして、

月に1回の通院をこなす。

 

私には約10年間、それだけでいっぱいいっぱいだった。

 

スーパーで買い物とか、ディズニーレベルで楽しかった。

 

 

実際には買い物は、ほぼネットスーパーの恩恵を受けていた。

 

 

 

そんな日々は確実に私を蝕んで、

段々とユズのことを第一に見られなくなっていた。

 

何か、自分を支える、自分の心を保てる何かが欲しい。

 

次第にそんな考えばかりが私を支配した。

 

 

今は当たり前になってきている、

おしゃべり会や親の会などにすがった。

 

そこで周囲の親たちの素晴らしさに圧倒され、

喋った分、少しストレス解消にはなっていたものの、

周りと比べて自分のだらしなさに落ち込んで帰ってくる。

 

それでもそんな「外の場所」に居場所を維持したくて

求められることに応えようとした。

 

でも、それが新たなストレスになっていたことは

ずっと後にならないと気づけなかった。

 

 

ユズのケアも十分にしてあげられない。

 

ほかの親たちとも心置きなく喋れない。

 

家では夫は仕事と団体活動で帰ってこない。

 

 

 

私の、

 

私自身のメンタルを維持するには、

 

もうどうしたらいいのかわからなかった。

 

 

 

 

相談支援事業所にも頼った。

 

「ユズのことも含めて、家庭のことができない」

 

支援員さんは言った。

 

「ご自身が精神科に通ってうつ病と診断されれば、支援はできます。」

 

自分の通院の時間?

 

それってどこにあるんですか?

 

 

 

気軽な外出なんて、私には夢のまた夢だった。

 

実母や訪問看護に頼っての外出も、

常に気を抜けなかった。

 

気を抜きたい、ただそれだけが唯一の願いだった。

3月半ばから、祖母の介護のために家を空けることが多かった。

 

生前にあまり訪問できなかったのを取り返すかのように

最後の3週間はこれでもかと祖母に寄り添った3週間だった。

 

 

祖母の思い出の味。

 

すみつかれ、胡麻汁、甘い卵焼き。

しょうゆトースト、白菜の漬物、茄子の甘煮。

たまご味噌。

たくさんの精進揚げ。

祖父と打った、ボロボロの十割蕎麦。

 

肉魚の食べられない祖父と、高齢の曽祖父。

そして育ち盛り食い盛りの私たち兄弟を食わすのに、

きっと祖母は毎日必死で辟易していたに違いないと

40になった今は痛いほどわかる。

 

よくあんなに毎日食事を作り続けられたものだと思う。

 

早くに母を亡くしたせいで

9つ歳の離れた妹の世話をし、

父、夫、3人娘の世話をし、

孫2人の世話をし、

100羽以上いたニワトリの世話をしてきた。

 

私が生まれる前は、牛やヤギ、豚もいたらしい。

 

本当に、あっぱれなみんなのお母さんだった。

 

 

ゆえに、「自分の人生」など二の次だっただろうな。

 

今こうして、私が私の人生を模索しているように

自分のことを考える余裕などきっとなかっただろう。

 

私が苦しみ、自分を取り戻すためにもがいているのは

そうするだけの余裕がまだ自分にあるということなのかもしれない。

 

祖母は、そのくらい、みんなのために生きてきた。

 

 

だから、自分の家計を守ることに必死な私も

最期のときくらいは祖母のために寄り添いたかった。

生活全振りで。

 

それが叶ったから、私は後悔をあまり残さずに済んでいる。

 

 

少しずつ、日常に戻っている。

 

 

3月26日 火曜日。

 

春の嵐が、祖母を連れていってしまった。

 

 

 

我慢づよい祖母が

 

「家に帰りたい」

 

と消えてしまいそうな声を振り絞ったとき、

1週間ほど入院していた緩和ケア病棟を出て

自宅で看取ることを家族で決心した。

 

ちょうど、亡くなる1週間前の退院だった。

 

 

医療的ケアのあるユズを在宅でみていた私にとって

祖母のケアはそんなに大変なものではなかった。

 

末期のためモルヒネを投与されていた祖母はほぼ眠っていて、

30分〜1時間に1回程度様子をみて

排泄の状態をみたり水を飲ませたり、体位交換をする程度だ。

 

毎日1度来てくれていた訪問看護さんと協力しながら

陰部洗浄をしたり、体を拭いて着替えをしたり、

辛い時に薬を追加したりする役目を、

母や叔母などと共に協力しておこなった。

 

ユズのときはたった一人で10年間ものあいだ、

毎日毎時間何かしらの世話をしていたのだ。

 

在宅に戻ることは、私にとって特に不安はなかった。

 

 

 

けれどさすがに「看取り」は初めてだった。

 

 

祖母は自分の父親を自宅で看取っていたし、

戦中に生まれたこともあってさまざまな経験をしていたから

肝が据わっていて、

起きたことを全て静かに受け入れる人だった。

 

だから、その祖母を見習って、最期の時まで務めようと思った。

 

 

私にとって母代わりであった大好きな祖母だから、

ほとんど声が出なくて他の親族の誰にも聞き取れない言葉でも

必死に拾って周りに伝えた。

 

それでも聞き取れない言葉が増え、本人が自身の最期を悟ったであろうその時。

 

 

「こわい」

 

 

痩せて面影の変わってしまったその顔を

子供のようにくしゃくしゃにしながら、

きっと、祖母はそう発したのだった。

 

 

多分、聞き取れていたと思う。

 

しかし私は咄嗟に

 

「何を言ってるかわかってあげられない。ごめんね。。」

 

と言ってしまったのだ。

 

 

なぜなら

祖母のその言葉を受け取って、

 

『こわくないよ』『大丈夫だよ』

 

と言ってしまったら、

 

祖母のすぐそばに “死” が迫っていることを

2人で認めなければいけなくなってしまう気がして

恐ろしくなったからだ。

 

情けなくも祖母の苦しみを真正面から受け止めてやれないまま、

結局、この出来事の数時間後、祖母は逝ってしまった。

 

 

 

 

さりとて祖母の去り際は、とても賑やかで素敵なものだった。

 

 

訪問看護さんが置いて行ってくれた冊子に

「聴覚は最後まで残ると言われているので好きな音楽などを流してあげてください」

と書かれていたのを思い出し、

「ばあちゃんの好きな歌手誰だっけ?!」と親族みんなで考えた。

 

孫の一人が急いでLINE musicから流してくれた氷川きよし。

 

ちゃ〜らっちゃっちゃちゃ〜らっちゃっちゃ♪

と、なんとも場にそぐわない軽快な音楽が流れ出し、

ずん、ずんずんずんどこ きっよっし!

と愉快なリズムで祖母を送る親族一同。

 

床ずれ防止のマットレスに横たわった祖母が

最後の一呼吸を迎えようとするのを

ベッドの周りをぐるりと囲んだズンドコ節一行が泣き笑いで見守る光景は

なんとも言えない、滑稽さと神妙さをはらんで輝いて見えた。

 

祖母は苦しかったかもしれない。

今そんな歌うたってる場合か!

と思っていたかもしれない。

 

けれども私は、自分の遺言に

「私の好きな賑やかな歌を歌いながら送ってほしい」

と書きたいと強く強く思った。

 

 

そんな光景だった。

 

 

 

 

祖母は同居の孫(私の弟)と近くに住む実妹の到着を待って、

息を引き取った。

 

最後はぎゅっと目を瞑り、その後、静かになった。

 

 

実家で独り過ごすことが多かった祖母を、

こんなふうに賑やかに送り出すことができて

私は幸せに思った。

 

 

ばあちゃんは、どう思ってるかな。

 

 

なかなか実感が湧かない、

かといって実感したくもない、

そんな1週間をたくさんの親族と共に賑やかに過ごして

ばあちゃんの弔いは終わった。

 

葬式は、坊さんの都合で亡くなってちょうど1週間後だった。

 

入院から正味、3週間のあいだの出来事であった。

 

 

遺影はいとこが撮ってくれた写真から、

私がphotoshopで加工処理したものを使った。

私の次女と一緒に撮ってもらった時の、

とても柔らかな祖母らしい遺影となった。

 

 

 

葬儀場の敷地内に2本だけあった桜は、7分咲き。

 

立ち昇る煙となった祖母は、きっとこの桜を見たと思う。

 

むしろ、今年の桜をどうしても見たくて、

1週間後の葬儀となるよう不思議な力で調整したのだろうか。

 

 

祖母はいま、私の胸にいる。

 

愛情をもっと得たくてもがいた私に、

今は決して離れない存在となりそばにいる。

 

受け止めてやれなかった言葉と一緒に、

これからもずっと、そばにいる。

 

 

人は、死を前に無力だ。

 

以前からここに記している通り、

私の祖母は末期の乳がんで。

高齢だから発覚から6年ほど元気に過ごしていたが、

とうとう2月半ばから記憶にも障害が出てきて、

目の色が曇り始めた。

 

 

祖母は、私の母代わりのような人だ。

 

3歳の頃に弟ができたことで

私は父母のいる寝室から追い出され、

祖父母の寝室で寝ることになった。

 

中学1年生でプレハブ小屋を個室代わりに建ててもらうまで、

10年ものあいだ祖母の隣で寝ていた。

 

母が日中働きに出ていたため、

学校の時間以外にも私が頼るのは祖母だった。

 

朝昼晩の食事もほぼ祖母が用意してくれたので、

私の母の味は"祖母の味"だ。


 

祖母は自分から、私を抱きしめたりする人ではなかった。

 

祖母は早くに実母を亡くしており、

ハタチそこそこから一人で実父(私の曽祖父)と夫(私の祖父)、

そして3人の娘たちの身の回りの世話を一手に引き受けてきた。

 

だから私(孫)が生まれてからも、実父と夫の世話に加えてサザエさん状態の娘夫婦の世話もしなければならない苦労人だったから

現代のような「ぎゅっと抱きしめて愛情を伝える」余裕など

持ち合わせていなかったのだと思う。

 

けれど幼い私は母親に甘えられない分、

祖母に愛情を求めてくっついて寝ていた。

 

 

学校から帰ると、

私はもっぱら近所の神社まで自転車で行って

敷地内にあるブランコで遊んでいたが、

そのうち飽きると

畑仕事や家畜の世話、そして夕食の準備にと忙しい祖母に

始終くっつき回っては手伝いの真似事をしていた。

 

祖母からしたら邪魔だったろう。

自分の仕事をこなすことに精一杯だったろう。

 

そんなことには気づかない子供だった私は、

文句を言ったり、不貞腐れたり、泣いたりした。

祖母の気を引きたかったのだと思う。

 

祖母はこちらを向くことはあまりなかったけれど、

それでも大好きな、優しいばあちゃんだった。

 

 

 

そんな祖母が末期の癌だと言われた6年前、

私は「もっと自分にできることをしてあげたい」

と思った。

 

医師からの言葉でわからないことがあれば

私にできる範囲で噛み砕いて伝えたり、

時間ができたら会いに行って、

有用な情報があれば伝えた。

 

でも、ホルモン剤が効いて

周囲が思ったよりも祖母の元気な期間が長くなると、

次第に実家から足が遠のいてしまった。

 

24時間介護が必要な ゆず と、

難病で職を失った夫と幼い次女を支える身である私には、

長期間、実家を行ったり来たりの生活は不可能だった。

 

昨年末、祖母がたびたび倒れるようになったころ、

今度は私のメンタルもボロボロになっていて

自分自身に余裕がなくなってしまった。

 

そうこうしているうちに、

いよいよ祖母が冒頭のような状態になってしまったのだ。

 

 

人は何かを失うと

「ああしてればよかった」

「こうしてれば何か変わったかも」

と思ってしまう。

 

前回の記事で書いたように。

 

私も祖母もきっと、

生きていくために自分が与えられた役割に必死だった。

 

でも今は、

無力な自分でもそばに行こうと思う。

 

祖母が、母の代わりにただ私の隣にいてくれたように。