昨年口蹄疫で、大量の牛豚を殺処分しなければならなかった宮崎県に、今度は鳥インフルエンザが襲いかかり、その騒ぎの最中に、宮崎鹿児島県境にある新燃岳(しんもえだけ)火山が噴火し、その噴煙が南東に流され、再び都城を中心とする県内の広い範囲が降灰の被害を受けている。


絶え間なく襲いかかる災難に、宮崎県を支える主要な産業である農家や畜産農家の苦しみはいかばかりかと思う。


東国原知事が辞任して、新知事になっての重なる災害である。宮崎県民は、何で自分達にこんな災害ばかりが降りかかるのだろうと神様を恨んでいるかもしれない。


新聞はこの事態をあまり大きく報道していないが、噴火が長引けば、その影響は計り知れないものが出てくるに違いない。ある学者は300年前の大噴火と同じことになるかもしれないと警告している。溶岩ドームが火口付近に頭を現わしてきている。また、この噴火は数カ月から1年も継続するかもしれないとも言っている。


火山灰は実に厄介な代物である。雪のように春になれば消えて無くなるものではない。

火山灰はあらゆる隙間から住宅の中にも侵入してくる。夏になっても風が吹けば目も開けて居られない程の火山灰が吹きあがる。汗をかいた身体には容赦なくまとわりつく。気温が上がっても、通風のために戸をあけることもできないのである。火山灰は水で流すことができない。水を含むとかたまり、水の流れを阻害するからである。


これはQ翁がかつて桜島の噴火時、鹿児島市周辺で体験したことである。

火山灰が航空機のエンジンに大きな影響を及ぼすことも知られているところである。ジェットエンジンは、吸入口から大量の空気を吸い込む。空気中に火山灰があれば熱で溶融してタービンブレードに付着し空気の流れを大きく阻害する。そのためエンジン出力が低下してしまうのである。


この冬3度目の大寒波といわれる中、09:15教会に向かう。


今日は前回に続きコリントⅠ第7章17~24節に関連して「召された時のままに」というタイトルで嶋田恵悟牧師の説教が行われた。


当時のコリント教会で、議論になっていた、キリスト者は結婚するのが良いのか独身が良いのか、という問題に対して、パウロはどちらもそのままで良いと書いているのである。


パウロはそのような結婚問題よりも大切なことを伝えたかったのである。


本日のところでは。割礼を受けているか いないか等の問題。自由人であるか奴隷であるか。などの身分の問題などが取り上げられている。


割礼を受けているか否かは、ユダヤ人であるか異邦人であるかという差別である。当時割礼を受けていることを誇りとし、受けていない者を軽蔑する風潮があった。また割礼を受けていない者は、それを恥とし、コンプレックスを感じていた者もいた。それで新しく割礼を受けようとする者も居た。


そういうことを結婚問題と同じように、キリスト者は、すべてありのままで良いとパウロは述べているのである。


さらに自由人か奴隷かという問題についても、同じくありのままで良いと述べている。ここでいう奴隷とは、一般的に日本人が思う奴隷とは意味が違う。誰かに使われている使用人のことである。


自営であろうが、人に使われていようが、それはどちらでも良いとパウロは言っているのである。


キリスト者は洗礼を受けた時、神に召されたのである。安易に云えば神様に呼び出されたのである。あくまでも神様の方から呼び出されたのであって、自分が主体になって、信仰生活をしたことによって獲得する「救い」ではないのである。


パウロはこの原則を伝えたかったのである。神に召されて救いを与えられたことに感謝して、信仰生活が始まっているのである。これを逆に考えてはならない。と言っているのである。

したがって、コリント教会で、議論されている結婚問題や割礼問題や身分問題など、ありのままで良いという答えになっているのである。


人間は様々な環境に置かれている。奴隷の身分の者もおれば、自由人の身分の者も居る。ユダヤ人も居れば異邦人も居る。

それぞれが、様々な過去を背負って現在がある。


そのような人生の歩みを恥じることはない。


そういうすべての人々を神様は見捨てていないのである。そのような人達に救いは神さまの方から与えられるものである。


従ってキリスト者は傲慢になってはならない。一方的に自己否定をしてもいけない。


洗礼をうけるということは、罪を許して、神様が召されたことである。

その時の気持ちにとどまるべきである。とパウロは言っている。


神様の奴隷になるということは、本当の自由を与えられることである。人の奴隷になってはならないと述べている。


あなたがたは代価を払って買い取られたのだ。その代価とはキリストの十字架である。


以上のような主旨の説教が行われた。神に応答していない人は、確かに傲慢である。Q翁もかつては傲慢であったように思う。傲慢の間には、本当の心の自由は与えられないことを今にして思う。


思いは、過去のこと、現在のことと色々に及ぶが、今日も感謝して12:00帰宅できた。