世界を震撼させた石原莞爾の錦州爆撃は、日本の政府をも直撃した。


この爆撃は、関東軍が不屈の意志をもって、満州問題の解決に向かうことを日本政府、軍の中枢に示したのである。


関東軍の日本政府に対する忠告は國際社会が注視する中で行われたのである。


関東軍の行動を非とするならば、関東軍の幹部をすべて処罰しなければならない。そして、満州から日本は徹退しなければならない。そうすれば国民世論が猛反発するに違いない。


政府は、そのような圧力に耐えられるのか。


すでに、石原莞爾達は、目的達成までは、日本国籍を返上し、独自の行動をとることを宣言している。


石原の頭の中には、日本のことだけでなく、アジアの秩序を回復するこために、何としてもソ連の満州進出を防がなければならないと思っていたのである。


かと言って、日本政府が、関東軍の行動を肯定すれば、国際連盟をはじめ、国際社会に対して挑戦を行うことになってしまう。


それはとりもなおさず、日本政府は国家としての統制能力がないことを世界に示すことにほかならない。


悩み抜いた政府は、結局、関東軍の行動を肯定する以外に道はなくなったのである。それは日本政府が、選択し得る、細い細い一本の道であったのである。


国際協調を理念としていた、幣原外務大臣も、結局満州の日本の権益を守り抜くことを宣言したのである。おそらく幣原外務大臣にとっては、残念無念の心境であったに違いない。


これが15年戦争の始まりとなった。


こうなった背景には、石原等が行った錦州爆撃劇があったことは否定できないが、当時の国民感情からして、満州からの撤退は不可能であったことが大きな要因であるかことは間違いない。


日本人の多くが、満州に新天地を求め、満鉄や金融機関などに就職していたのである。Q翁の伯父も満州に人生をかけていた。


日本の国内は、閉塞感に満ち、様々な考えの人達が、徒党を組んで活動をしていたのである。昭和6年当時の日本の国内事情について筆者は次のように述べている。


4月から異常低温が続き、特に東北地方は7月までの平均気温が18℃という厳しさであった。中でも北海道と青森県では収穫が前年の三分の一にも及ばず、その弊害は深刻であった。前年の大豊作では米価は大暴落し、疲弊していた農村経済は殆ど壊滅的な打撃を受けたのである。


農業だけではなく工業商業も不況のどん底にあり、大量の失業者が巷にあふれ、農民は出稼ぎにも出られず、粟、ヒエ、は もちろんのこと樹皮まで食用に供し、飢死者が出ていると伝えられていた。


東北のある村では売られた娘が全体の2割にも達したという。


政府や新聞は、この原因が財閥などの「ドル買い」にあるととして糾弾したため、国民反財閥感情は頂天に達し、右翼、左翼の過激は抗議行動が繰り返されていた。


このような中に、軍部や一部右翼と目される人達が、政府の機能喪失ぶりに憤慨しクーデーターを計画し、それが暴露されるに至って、政府を益々窮地に追い込まれていったのである。



このクーデーター計画には、陸軍だけではなく海軍も加わり、さらに大川周明、北一輝 井上日召といった右翼の大物がかかわっていたのである。


まさに国家転覆クーデーターであったが、その最終的目的は、やがてソ連により、満州、朝鮮、日本が占領されてしまうという危機感から、ソ連に対する強硬姿勢を唱える人達の集団であったのである。


計画の中枢は参謀本部ロシア斑の橋本中佐を中心とするメンバーで構成されていたことからも、当時の日本人のソ連に対する危機感は、異常なまでに高まっていたのである。


歴史にもしもはないが、満州事変がなければ、現在の中国東北部、朝鮮半島、日本までもが、ソ連領に編入されていたかもしれないとQ翁は時々考えることがある。


ソビエトは、誰のものでもない土地を東へ東へと進み、すべて自国の領土としてきたのである。


それを思うと、日本の北方領土をロシア領とすることなど、当然と思っているに違いない。