尖閣領海での中国漁船が我が国の巡視船に当たりした事件に関連して、国家秘密とされたビデオがyou tubeで公開され、国会は、大騒ぎとなった。マスコミもこれを大きく報道した。
中国漁船船長の釈放とビデオ流出について。国会では、真相究明という言葉が何度も叫ばれている。
しかし、真相は国民には伝わってはこない。常識的に考えて、那覇地検が独断で、中国との今後の関係を思って、犯罪人を釈放したとは思えない。
それについては、あくまでも指揮権の発動は無かったと、菅内閣は言い張っている。
いつの世の事件も真相究明は難しい。
さて、Q翁が生まれた年に起きた、張作霖爆殺事件について、日本政府は真相究明に必死であった。当時の日本の首相は田中義一である。
関東軍河本大佐の証言や実行部隊の指揮官の大尉の証言などで、ほぼ事件が起きた直接の犯行の真相は明らかになった。しかしその背景は明らかでなかった。
この実行部隊の真実を公表しようとした田中首相は、軍人や財界の猛烈な反対に遭遇するのである。
真実を発表したら、支那大陸は大変な騒ぎになるし、日本は国際的にも非難の的にされるというのである。まさに国際関係を重んじという尖閣事件と同じである。
真相を公表しようとした田中首相を理解したのは元老西園寺だけだったと筆者は述べている。
田中首相は孤立無援の状態になった。昭和4年の年明けの国会で、民政党の中野正剛が舌鋒鋭く、真実を語るように田中首相を責め立てた有名な演説は今でも語り継がれている。
これに対し 「満州某大事件」として日本の各新聞は興味本位に推測を含めた大報道合戦をはじめたのである。
昭和3年11月(Q翁生後1カ月)に田中首相は昭和天皇に張作霖爆殺が関東軍の仕業であることを内奏してしまっていたのである。
そこで事件の真相解明と関係者の処分も昭和天皇と約束していたのである。
ところが田中義一首相は、陸軍省の抵抗にあって、処分はあいあまいなものになったしまったのである。
昭和4年の6月に、田中首相が昭和天皇にその実情を報告した時、昭和天皇は激怒され、「それでは前の約束と違うではないか。辞表をだしたらどうだ」と田中首相を責められたという。
天皇がこのような越権と思われる発言をされた責任は 逆に当時の政治家並びに軍人にあった事は否めない。
Q翁がこの世に生を受けたときから、日本は、このように迷走の道を歩み始めていたのである。そして人生の終わりにあたって、同じように迷走する日本の姿をみるはめになっているのである。
石原莞爾が対戦相手をアメリカと考えていた時、当時の一般の政治家や経済界のリーダー達はアメリカをどう見ていたのであろうか。
一言で言えば「アメリカは日本人にとって羨望の国」であったのである。
自動車、電気製品、住宅 別荘 ラジオ放送など、現在の発展途上国がが一時日本のあこがれをもったのと似ている。
しかし、当時からアメリカは世界の金融を握り、ニューヨークの株は前代未聞の値上がりをしていた。この姿を観て我が国でもと考えたのは当然の成り行きであった。ニューヨークの株式がくしゃみをすれば、日本が風邪をひくとか当時からいわれる事態になっでいたのである。
リーマンショックなどで、アメリカの金融に振り回されている現代の金融事情も当時の二の舞のようにQ翁は思えてならない。
人生82年余生きてきて、日本の置かれた立場は、昭和初期Q翁誕生の時代と同じように微妙なことになってきた。
これも宿命というべきものなおかもしれない。
Q翁は歴史は繰り返すとは思わないが、日本が再び大きな歴史の岐路に差し掛かっているような気がしてならない。果たして日本人のどれだけの人が現在の日本をどう認識しているのか。歴史にしっかりと学ばなければならないと思う。
余程しっかりしないと、この国は滅亡の道を再び歩み始めるような気がしてならない。
このことが、現在日本人全部に大きな閉塞感を与えていることになっているのであろう。
(続く)