もう梅雨に入ったのかと思うほど、毎日曇り雨の日が続いていたが今朝は快晴である。


昨夜半、南アフリカワールドカップ出場をかけて、岡田ジャパンとウズベキスタンとのアウエーの一戦が放送され、23:00から02:00まで布団に横たわりながら観戦。1:0で日本が勝っていても、終盤ウズベキスタンの猛攻で、ハラハラし、眠気吹き飛ぶ。


勝利に終わってからも、興奮したためか眠れず、天候は快晴だが、気分はすっきりしない。これが負けてでもいたら もっと憂鬱だったろう。深夜放送は老人には毒であるが、どうしても気になる。


と つぶやきながら、今日も無事日曜礼拝に教会に赴けることを感謝。


マルコ福音書2章1~12に関連して「あなたの罪は許される」という題で、嶋田牧師の説教が行われた。


中風の患者が4人に運ばれて、イエスに救いを求めに必死で行った話である。

説教は、患者よりも、その患者を必死で助けようとして行く4人に向けられた。家族であるのか友人であるのか聖書には記述がないが、はっきりしていることはこの4人が何としてもこの中風の患者を助けたいという一心でイエスに救いを求めていることである。


大勢の人が集まっていて入れないので、イエスがいた家の屋根を剥ぎ、穴をあけて患者を搬入した様子が語られている。これは患者よりも4人の搬入者の必死さが表されている。


同時にこの乱暴とも思われる行為で、イエスの前に吊下ろされた中風の患者に、イエスは怒ることもなく

「子よ。あなたの罪は赦された。」という。

患者の病を治すめに罪を赦されたということは、人間にとって病が治ることよりも罪が赦される方が大事であることを教えていると説明された。


私たちは、信仰は個人のもので、個人が修練してかちとるものと考えがちであるが、本日の説教は、信仰はあくまでも自分と自分をとりまく人達の関係で成り立つものだと説明された。


信仰は、まず自分の周囲の人達の救いを祈り求めなければならない。これを「とりなし」という言葉で説明された。


そして周囲の人の「とりなし」によって自分が救われるのだと言われた。


Q翁は、傘寿を超え、今はしみじみとそのことが分かる。


ここでいう中風とは、肉体的に身体の自由が失われた病気の人を言っているように思うが、中風の部分の訳は「気力が萎える」「虚脱状態になった」ということである。


自分がそういう状態になったとき、周囲の人からとりなしされ、気力を回復し、元気になることを述べているのだという。


これは単に自分に対する御利益を願うことや、困った時の神頼みの神様を利用する信仰?とは全く次元の異なることである。


説教を聞き、Q翁を顧みれば、現在、自分のことで祈ることは全くないと言ってよい。


現状に感謝することと、家族を含めた身辺の人達が、平穏に生きていけるようにひたすら祈るだけである。


明らかに若い時と信仰に関する考え方も大きく異なっていることに気がつく。