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朱に入れば朱に染まるということわざも示すように、人間は一緒に過ごす人に合わせて変化する。どういう生活を送るのかというのは人間関係で決まると言っても過言ではないと思う。それはどこにいても同じことだ。

ここで、私が始めの1年半を一緒に過ごした友人たちのことを書いておこうと思う。背が高く、裏表のない剛胆な性格で皆に好かれていたジュリア。楽しいことや気持ちがいいことが大好きなのに、クールでいつも冷静、とても友達想いでかっこいいクリスティン。体が小さくて目が大きく、ゆっくりと話して皆に可愛がられるエイミー。物憂げな外見の通りに思慮深いけれど、芯がしっかりしていて頼られるブリーアン。毒舌で皮肉屋だけれど、友人はとても大切にするベツィ。途中で転校してしまった、ほっぺの赤いお茶目なキャンディス。これ以外にも、遊びに行く時は一緒になる友人が10名ほどいた。

みんな、友達想いで暖かい心を持った優しい人だった。自分達の仲間になった人はとても大切にする。真剣に付き合うからこそ、喧嘩や仲たがいもしょっちゅうだったが、それは互いを信頼しあっている証拠だったと思う。

彼女たちは遊び好きの楽しいことが大好きな典型的なアメリカ人の女の子たちだったけれど、私が彼女たちの輪に入ったのも、私が同じような人間だったからなのかとも思う。ただ、彼女たちは彼女たちなりに必死に勉強にも取り組んでいた。普段は学生だと言うことが信じられないくらいに遊びほうけても、いざ必要とあらば猛勉強する。もし私が、真面目一辺倒の勉学一筋で生きているような人間だったら、同じような勉強熱心なグループに入っていたかもしれないし、逆に勉強は二の次で遊びほうけるような人間だったらそういう人たちと過ごしたのだろう。

昨日、受け入れられることと自己主張することは別だと書いたけれど、そう思うに至ったのは彼女たちが私のことを丸っきり受け入れてくれたにも関わらず、私は自分が思うように話せないことから徐々に卑屈になっていったからだ。彼女たちはあるがままに自分自身を開放し、その上で受け入れられて友情関係を築いていくのに、私はそれすらできない、とそう思っていた。言いたいことを言えない、理解してもらえない。そのもどかしさを超えることができなかった。

自己主張できないということ以外にも、私がアメリカ人の友人から離れて行った理由はいくつかあった。1つは、「911がもたらしたもの」にも書いたように、あの事件を境にして私のアメリカ人に対する見方が決定的に変わってしまったということだ。それまでは特に自分とアメリカ人を区別するようなことはなかったのだけれど、911以降はアメリカ人、特に白人のアメリカ人が自分にとっては異するものになってしまった。丁度留学開始から1年半ほど経ち、もどかしさが頂点に達している頃のことだったから、最悪のタイミングだったとも思える。

もう1つは、アメリカ人の中で自分を保ち続けることに疲れてしまったということだ。アメリカの社会が弱者に厳しい競争社会だという話はよく耳にすると思う。そういう「強い者勝ち」という風潮はどこでも見られたと思う。クラスメートからたまたま会った友人の友人といった知り合いまで、アメリカ人が2人以上集えばそこには競争社会の片鱗を見ることができた。

しかし、それが強かったのは特に若者の間内であったようにも思う。分別のつく大人は、少なくともそれを大っぴらに示すようなことはなかった。私が深く付き合ったのが若者だけだったからそう感じたのかもしれないが、まだ失敗を知らず、自分もいつかはそちら側に行くかもしれないと恐れることをしない若者は、大人以上に残酷でいられるのかも知れない。

それは例えば、日常会話に"loser"(負け犬)という単語がしばしば出て来ること、経済的な理由で学校を辞めた人や精神的に不安定になり退学になったような人を辛らつな言葉で表現すること、逆に、「できる奴」とみなした人や親が裕福などの優位な点を持つ人に対して必要以上にあがめることなどだ。それから、みな自分が「できること」をよく挙げた。私はこれができる、あれができる、と、謙遜などとは無関係のように主張していた。

負け犬は勝者に飲み込まれるだけだ。もしそれが嫌なら、常に強くあり続けなくてはいけない。私も「自分」というものを強く持つ必要にせまられた。負けない自分、強い自分、優秀な自分。建前だけでもそうした「自分」を作り上げなければやっていけなかった。それを続けることに疲れてしまったのだ。

こうしてアメリカ人の中で生活するうちに、徐々に見下されたくない、利用されたくないという思いが強くなり、人に弱みを見せられないという間違った方向に行ってしまった。どうしたらいいのか分からなかったのだろう。何しろ、それまでのほほんと暮らしてきた私が、突如、できもしない自己主張を続けなければ「負け犬」側に転落してしまうという競争の舞台に飛び出してしまったのだから。

今まで書いてきたことは、それぞれが密接に繋がりあっている。一言で言えば「対人能力」が求められるということだろうか。一昔前にEQやemotional intelligenceと呼ばれもてはやされた能力のことだ。私は見事にそれに失敗し、アメリカ人の友人たちから離れた。

彼女たちのことは今でも大好きだ。アメリカ人に対する考え方が変わっても、彼女たちのことを嫌いになったことは一度もなかった。少しはあの頃より大人になった私は、今だったら彼女たちととてもいい関係を築くことができるのだろうか。

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