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悩んでいようが苦しんでいようが、時は等しく過ぎていく。何も解決できないままに時間だけが過ぎていき、気が付いたらボストンを離れてから1年が経っていた。季節が巡ってまた夏が来たと言うのに、私は相変わらず立ち止まったままだった。


最終目標は卒業すること。そのために何をすべきなのかが分からない。考えることを優先すべきなのか、それともさっさと仕事を見つけるなりして人の輪へ入った方がいいのか。なぜ引きこもっていたのかという疑問を解決しようにも、そのことについて考え出すと強い不安感が起こり、じっとしていられない。何も私を苦しめるものなど日本には存在しないのに、アメリカにいる自分を考えるだけで不安定になった。

帰国と前後した時期、実家の方に大きな問題が次々と起こり、両親はその対処に奔走していた。私は積極的にそれを手助けすることで、「なにをすべきか」という問題に向き合うことから逃げていた。深夜まで作業が及ぶこともあったが、相変わらず夜は寝られなかったし、深夜には吐き気を催すことが多かった私には「するべきこと」があるだけでありがたかった。

時々ふらっと紀伊国屋のような大きな書店へ出かけては、心理学書のコーナーへ向かい、タイトルを端から見て自分を救ってくれそうな題名の本を買って帰った。「甘えの構造」「自己実現の心理」など、私の部屋の書棚にある本のタイトルを見ただけで、当時の私が何を一番の問題として捉えていたのかが分かる。しかしそれらの本を読むことはなく、「現状から抜け出す手がかり」というつかの間の安心感を得るだけで終わった。

大学病院の心療内科にも行った。といっても2回しか通わなかったが。2回目の診療の場で、50代前後の女医は私の話が終わった後に「アメリカ人に対する恐怖心を取り除く心理療法をお勧めしますが、どうなさいますか?」と私に聞いた。私はきょとんとした顔をしていたと思う。「アメリカ人?恐怖?この人は何を的外れなことを言っているんだろう」と、そう思っていた。なぜ彼女がそんなことを言い出したのか理解できなかったし、以前2ヶ月ほど薬を飲んでいた時に全く効果がなかったことも相まって、私は次回の予約を断った。今の私に必要なのは精神科医ではなく、甘えを断った確固たる意志だ。そう考えていた。

そうこうしている内に1年が過ぎ、私は一度ボストンへ戻った。ちょうど帰国から1年後の9月のことだ。何しろ慌ただしい帰国で、アパートの解約から家具の処分、荷物整理に事務処理、友人への別れなど、全てをいっぺんに行ったお陰で色々とやり残してきたことがあった。帰国した時には3ヶ月後の1月に始まる春学期から復帰しようと思っていたので、人に預けたままにしてしまった荷物も山ほどある。1年が経ち、いい加減にそれ以上伸ばすことはできなかった。

唐突だが、私はボストンという街がとても好きだ。今でもあの街のことを思い浮かべると、煉瓦の街並や緑に溢れた川辺、通りに面したレストランで楽しげに食事をする人たちや野原を歩くガチョウ達のイメージが次々と沸き上がって来る。中心地はそうでもないが、少し郊外に足を向けると意外に自然が残っている。冬の寒さが厳しいだけに、暖かくなってからの明るい印象が強く残ったのだろう。

それなのに、1年ぶりに戻ったボストンの街はとても鬱陶しい所だった。居場所がない。暑い。騒々しい。1年前まで必死に離れるまいとして踏んばっていた街と同じだ場所だとは思えなかった。よそよそしく歩き回る人たち。照り返しのひどいコンクリートの地面。暑さにしなだれた街路樹。きつい香料の匂いに満ちたスーパーマーケット。街自体は何も変わってはいないのに、そこには私を引き止めるものが何もなかった。

友人たちに会うこともせず、ただ荷物整理と事務処理をこなして日本へ帰ってきた。帰国前にお世話になった人たちは、日本から持参した手みやげを渡して厚くお礼を述べ「当分戻ってこないと思います」と告げてから別れた。「絶対に戻る」と決めていた気持ちが嘘のようになくなっていた。

帰国からほどなくして、私は知人の会社で働き始めた。新しく立ち上げたばかりのその会社にはやるべきことが山ほどあって、最初の1か月は仕事を覚えるのに、その後は仕事をこなすことに必死で時はどんどん過ぎていった。帰りが夜の11時を過ぎるようなこともままあったが、ベッドに入ってから考える間もなく眠りに落ちることができるのが本当に嬉しかった。

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