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やっぱり前回の文章もまとまりのないものになってしまった。何が起きて、私がなにを考えていたのか、少しずつ思い出しながら書くのは本当に時間がかかる。

私が徐々にアメリカ人の友人たちから離れていったのは、2001年の夏のことだった。離れていったといっても同じ寮に住んでいるわけで、ちょくちょく顔は合わせるしお互いの部屋を行き来もする。ただ、どこかに一緒に出かけたりするようなことは格段に減っていった。

昨日、「周囲の理解力のなさに置き換えることで」と書いたが、それは何も友人たちに限ったことではなかった。「私を理解しない人たち」、つまり英語を母語として暮らしているアメリカ人全般にもその矛先は向かい初めていた。それが決定的となったのは、初めてボストンに渡ってから1年と10か月後の2001年9月11日、いわゆる同時多発テロの直後のことだ。

あの時私がどこで何をしていたか、何を思ったかというようなことはここでは書かない。それはこの「ニートになった理由」が書き終わった時にでも別の記事に書いておこうと思う。それに実際私自身は大したことは経験していない。

911、もしくは英語でSeptember 11(eleven)と呼ばれるこの事件は、よく「世界を震撼させた」という言葉で表現されるが、正直なところ私自身はあまり恐怖を感じなかった。しかし、それがアメリカ人にもたらした変化には凄まじいものがあった。

その事件の翌日から、防衛本能が刺激されたのかそれこそ眠っていた獣が一斉に眼を覚ましたかのように、彼らアメリカ人の間でナショナリズムの気運が爆発的に高まっていくのを目の当たりにした。例えアラブ人ではなくとも、軽々しいことは口にできない雰囲気だった。日本人でさえも口ひげを生やしていた男たちはひげをそり、留学生を含む外国人全体が敏感になったアメリカ人たちにびくびくしていたように思う。

普段、愛国心など欠片も見せずに過ごしている学生たちは、みな口々に「どう彼らに報復すべきか」ということを熱っぽく語っていたし、テレビではどのチャンネルでも下の方に"WAR"という言葉を表示させてこの事件を報道していた。一部の冷静な大人たちは、まず「彼ら」を理解することから始めようと行動を起こしていたが、熱くなった若者やそれ以外の大人は「知る」ことすら放棄したように復讐についてばかりを語り合っていた。

発生当初は多くの人がそう感じたように、私もそれが現実に起きていることとは思えなかった。それが私にとって現実の出来事になったのは、1日半の臨時休校を挟んで事件から二日後に再開された授業においてだった。

事件直後の授業は、多かれ少なかれどの科目でも事件についての話し合いに時間を割いた。哲学、宗教などでは時間いっぱいを使って議論を行っていたし、その他の授業でもそれぞれのアプローチでもって事件に歩み寄ろうとしていた。私がとっていた授業も例外ではなく、その内の一つでアメリカ人に対する決定的な意識の変革が起こることになる。

その授業はWriting Workshopと言って、要は論文をひたすら書きまくるだけの全学生必修のものだった。授業の性質上一年目か二年目の学生が多く、私のいたクラスの8割ほどはアメリカ人のFreshman(一年生)で占められていた。まだ教鞭をとって一年目の若い女教師は、私たちにグループディスカッションをするよう命じた。何をテーマに話したかは覚えていない。でも、テーマがなんであれ結果は同じだったろう。結局は上に書いたように報復についての語り合いになってしまっただろうから。

その中で一人の女の子が言った。「私たちは巨大な国家で、彼らはこんなちっぽけな(指で空中に点を書いた)存在でしょ。もし私たちが攻撃に転じたら、彼らなんてこんな感じよ。」そう言って彼女は右手の人さし指と親指を使って、その小さな点を弾き飛ばす振りをした。その時の彼女の優越感に歪んだ表情と、白くて深爪気味の丸まった指先だけは今でも覚えている。そして、彼女が指で目に見えない何かを弾いた瞬間、私ははっきりと彼女に敵意を抱いたのだった。

なぜ彼女のことだけをこんなに覚えているのかは分からない。同じようなことを他の生徒も言っていたし、私の友人のアメリカ人たちも口には出さないだけで似たようなことを考えていただろう。それでも、その時、私の中で何かが爆発したように、怒りと嫌悪が体中を駆けめぐった。別に自分の国を非難されたわけでもない。それなのに私は、はじき飛ばされた「何か」がまるで自分のように感じていた。

なぜそう感じたのか。「ちっぽけな存在」という言葉が、当時自信喪失していた自分と重なった、ということもあると思う。しかし、その時に彼女を通して私が見ていたのは、他国の文化・習慣に関心がなく、自分達が一番優れた存在だと信じて疑わない、傲慢な国民の姿だった。

ちょうどアメリカ人に対して「無理解」というヴェールをかぶせようとしていた私には都合がよかったのかも知れない。そうは思いたくないが。ともかく、普段は意識するともなくやり過ごしていたこの感情を、この時の私はとても醜いものとして受け止めた。

アメリカでよく使われる表現に"them against us"というものがある。これは、自分と異なる立場にいる人間を"them"という集合体でとらえ、同じ立場にいるものを"us"としてくくることで生じる二分構造の危険性を表す時に使われる。日常生活から国際関係まで、様々な場で異質なものを排除しようとする人間の習性を危惧したもので、もちろんイラク戦争に対しても使われることがある。事件前まではもやもやとした苛立ちを感じるだけでそんなことを意識したことはなかったのだが、この事件を境に私にとってのアメリカ人全般は"them"になった。

秋学期が始まったばかりでまだ授業登録変更が可能だったため、私はそのライティングの授業をドロップした。それ以上彼女の顔は見ていたくなかったし、なぜか初々しい女教師さえにも敵意を感じた。大勢のアメリカ人に囲まれて生活することが苦痛になり、Sept. 11から3か月後に私は二年間を過ごした寮を出た。

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