この度の ジャカルタ行きは ” ケンピンスキー ” という オーストリアの 


ホテルの オープニング セレモニーと レセプションに オーストリアの


クラウス ・ ウォルフェア大使閣下の お招きで 行くことになりました。


この由緒ある 元 ” ホテル インドネシア ” は 1962年 スカルノ大統領


が日本からの 戦争賠償金の 一部を使って ジャカルタに 独立後 


初めての 国際的な ホテルを 建設されたのでした。


他にも スカルノ大統領は インドネシアの 女性の為に ”サリナ” という 


ご自分の 乳母の 名前を付けた デパートメント ・ ストアを 建てました。


350年もの間 オランダの 植民地として 支配下にあった インドネシア


の人達に 国際的な ホテルや デパートを 建設することにより、 国民に 


誇りを与え、 士気を 高めるために されたのでした。


もちろん 外貨獲得の 一助となればとの 思いも 当然 ありました。


今から 半世紀近く 前のことです。 


 



昨年2008年に 日本 インドネシア 友好 50周年を お祝いして、 大変


大掛かりな 祝典と 行事がありました。



ジャカルタの 日本人会は 1959年から ジャカルタに 住んでいた 私を


是非 このレセプションに お招きするべきだと 声を大にして 日本大使に


要請したそうですが 大使は 却下なさったそうです。



私は 当時 日本と インドネシアの 架け橋になりたいとの 使命感に


燃え、 一生懸命でした。


当時の 日 ・ イ友好協会の 日本側の 会長は 鹿島建設の 鹿島守之助氏


でした。


そして インドネシア側は フセイン ・ カルタサスミタ氏でした。


そして 私は 名誉会長として 活躍しておりました。




JAL(日本航空)の千田氏が、ジャカルタの 私の許にお見えにました。


東京 - ジャカルタ間の 航路の実現を 要請していらっしゃり、


私は 快く承諾、 協力致しました。


その時の、 日本航空と インドネシアの  ガルーダ航空との間に 交わされた


アグリーメントは、赤子の手を ひねるような ものだったと 聞いております。


私は、ふと 考えてしまいます。 日本とアメリカの 戦後の条約や 協定は、


アメリカにとって 赤子の手を ひねるようなもので なかったことを


祈らずには いられません。




優秀な インドネシアの 学生500名を 3年間 日本に送り 教育、 


訓練を うけることも 戦争賠償金の 一部を使って 実行致しました。


この学生の中に フセイン ・ カルタサスミタ氏の ご長男 優秀な


ギナンジャール ・ カルタサスミタ氏がいました。 


私は ジャカルタの メイン ・ ストリートにある ジャカルタ警察の 隣の 


私の土地を 無料で提供し、 日本 ・ インドネシア 友好協会のオフィス


ビル 及び 日本 ・ インドネシア大学も ここに 建設致しました。




私の時代に 3人の 大使がいらっしゃいました。


黄田大使、 古内大使、 そして 斉藤大使方でした。


黄田大使のお嬢様は、まだお元気で、 先日 お電話で お話が出来て、


大変嬉しく思いました。 斉藤大使夫人も、 まだお元気なようです。


スカルノ大統領は、 第二次世界大戦中、 ジャワで、 当時日本軍にいらした


斉藤大使に、 顔見知りということで、大変手厚くおもてなしを しておりました。


ジャワの 国の宝ともいえる それは見事な 骨董品ともいえる お人形を


100体位、 差し上げたことも ありました。


最近になりまして、イスラエルの方と 結婚された、


華僑系の インドネシアの女性に、全てを 譲られたそうです。


私は、びっくり致しました。


なぜ、 インドネシア大使館に寄贈するとか、 スカルノ大学 または、


博物館(スカルノ大統領の次女 ラッハマワティ・スカルノさんが総長)へ、


寄贈して下さっても、あるいは返還して下さっても、 良かったのに、


と 大変残念に 思いました。


思えば あれ程 斉藤大使に 心をかけた スカルノ大統領。


よもや、 その斉藤大使が、 アメリカの マーシャル ・ グリーン大使と


共謀して 裏切られ、スカルノ政権崩壊に至るとは、


思っていらっしゃらなかった ことでしょう。





残念ながら ギナンジャール氏は スカルノ政権が 崩壊したため 次の


大統領となった スハルト将軍を 皮肉にも 支えることになりました。


その後 ギナンジャール ・ カルタサスミタ氏は、


日本 ・ インドネシア友好協会の会長を 長く努めました。


そうこうしているうちに 私の土地は 偽謄本が作成され 私の知らぬ間に


売却され 今は 全く違った ビルが 建っています。


これも インドネシアなのですね。


権力が 法より強い 時代が あったのです。


そして 昨年2008年には ギナンジャール ・ カルタサスミタ氏は


日本の 天皇陛下から 旭日大綬章を 授与されました。





この日 ・ イ友好50周年の 式典のある頃、 そんな事を 全く知らぬ


私は たまたま ジャカルタ におりました。 


前日、 レディース ・ ランチョンがあり、  カルタサスミタ夫人と 


お会いしました。


夫人は 私が ジャカルタに いるのに驚き、 さっそく 「翌日の式典に 


いらっしゃいませんか」 と お誘いして下さり、 招待状の 手配をして


下さいました。



当日 私がいることに気付いた インドネシアの ユドヨノ大統領閣下 ・


クリスティアニ夫妻は 足を止め、 私に会釈をなさいました。


しかし 日本の 塩尻大使は 私に 一瞥もくれませんでした。


ユドヨノ大統領は 毎年 私を 独立記念日 (8月17日) にご招待して


下さり、 今年は 次期副大統領ブディオノ夫妻 (10月から続政権) の隣に 


席を用意して 下さいました。

 

左側には 元国防大臣 トリ ・ ストゥリスノ将軍ご夫妻でした。



思えば 1966年 政変の 真っ只中 イタリアの 


ムチ ・ ファルコニ男爵大使は 小さな箱に 現金を詰め、 シンガポール


の友人に 届けて下さり、 フランスの ギィ ・ ドルジェ大使は 


重要な書類を バンコックまで 運んで下さり、 スウェーデンの


ハラルド・エデルスタム大使は この後 3年間も 9つの スーツケースを


大使館に隠し 保管しておいて 日本まで届けて 下さいました。



この当時 私は 日本の 斉藤 鎮男大使に 迷惑がかからぬよう せめて


オートクチュールの ドレスだけでも 数着 預かっていただこうと 


しましたが 大使は留守で 料理人夫婦が 預かって下さいましたが、 


後に 斉藤 大使の 知るところになり、 「 庭に放り出せ。 」 と


おっしゃたそうです。


料理人ご夫婦が 大変 申し訳なさそうに 「引き取りに 来て下さい。」


という電話が あったことを 昨日のように 思い出しております。


私をこき使った 日本の外務省が 懐かしく感じられます。





今は 南田 洋子さんの お葬式に 参列出来ぬことだけが 心残りです。


お花だけは 送らせて いただきました。


飛行機の中で 手を合わせます。


合掌




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