■新撰組一番隊組長 沖田総司 命日 | 電撃ネットワーク ギュウゾウ ブログ『ギュウゾウ新聞』 Powered by アメブロ

■新撰組一番隊組長 沖田総司 命日

慶応4年5月30日[1868年7月19日]
新撰組一番隊組長 沖田総司 命日

本来ならば沖田の命日は7月なのだが、新撰組隊士の命日は旧暦のまま弔う事が多いので、5月末に。


いまだに人気が衰えない新撰組の中でも、一・二を争う人気者、悲運の天才剣士沖田総司。

しかしながら彼の生涯は出自から終焉まで確かな記録が残っていない。

ベールに包まれた謎の人物なのである。

今回の墓地の旅では「沖田総司終焉の地」の謎を解きつつ
浅草~千駄ヶ谷~麻布へと歩を進める。


沖田総司の終焉の地には、浅草今戸説と千駄ヶ谷説の二説がある。まずは、浅草今戸説から。



この説を裏付ける文献は、永倉新八が記した『同志連名記』。文中の「浅草今戸の松本良順先生宿にて病死」が根拠となっている。

幕府御典医であった松本良順は、称福寺、浅草今戸八幡(現在の今戸神社)で鳥羽・伏見の戦いや戊辰上野戦争の戦傷者病院を診ていた。その中に新撰組局長近藤勇や沖田総司がいた。

観光客で賑わう浅草雷門の喧騒を離れ、隅田公園沿いを歩くと今戸神社がある。入り口の鳥居両脇には、青地に白のダンダラが描かれた「沖田総司終焉の地」の看板が目を引く。

広い境内の本殿正面に沖田の碑がある。高さは1mほどか。




思ったよりも小さい。
橘右近書による立派な寄席文字で「沖田総司終焉之地」と彫ってあるところが浅草っぽい。

終焉の地には諸説があって特定するには至っていない(最近の研究ではむしろ今戸説は押され気味)ので、ここ今戸神社の碑は口の悪い新撰組マニアから「見切り発車の疑惑の碑」とも言われているのだが、この地で近藤や沖田が治療を受け戦況巻き返しを練っていたのは確か。そう思うと感慨深い。



続いて千駄ヶ谷説へ。


これを裏付ける資料として、子母澤寛の『新選組始末記』中央公論社版の記事「千駄ヶ谷池尻橋の際にあった植木屋の平五郎と言う納屋に隠れていたが、慶応4年5月30日、年25で、この納屋で死んだ」がある。

始末記の文中にある有名なくだり「黒猫を斬ろうとしたが斬れない」は子母澤の創作とも言われているが……。

ワタシの見解として、伝染病の労咳(結核)を患っていた沖田が、戦傷者病院に居続ける事は不自然であるとして千駄ヶ谷平五郎宅離れ説支持である。

この平五郎宅、研究家の尽力で現在の「新宿区大京町29番地」と分かっているのだが、渋谷川の水は枯れ、千駄ヶ谷池尻橋は欄干に名残を残すのみである。その欄干跡から階段を下りるとある「大京町遊び場」あたりに沖田が隠れていた納屋があったそうだ。



残念ながらこの地には沖田総司に関する史跡碑は無い。

東京都もしくは新宿区の仕事で、案内看板くらいは出してもらいたいと切に願う次第である。

それとも、研究の末に「ここではない」という判断が下されたのか。

終焉の地は未だ闇の中である。

さて、沖田の墓参りに港区元麻布にある専称寺へ。

このお寺には以前、礼を逸した墓参者が殺到したため現在は墓所立ち入りが制限されている(問い合わせも不可)。



そこで、寺の右横小道から塀越しでの墓参となった。



沖田総司の墓は小さな屋根の下にある。ワタシは持参した双眼鏡をのぞき、墓石を近くに感じつつ手を合わせた。




一年で一度だけ墓参が許される総司忌。


今年は6月17日午前11時より専称寺で催される。