ミラノ~アンブロジアーナ図書館 | レオナルド・ダ・ヴィンチのノート

レオナルド・ダ・ヴィンチのノート

万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチの活躍を紹介していきます。

レオナルド・ダ・ヴィンチの「アトランティコ手稿」はここ、ミラノのアンブロジアーナ図書館に所蔵されている。ドゥオーモ広場から西へ、路面電車の通りを渡って数分の所にある歴史を感じさせる建物。


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$レオナルド・ダ・ヴィンチのノート-アンブロジアーナ図書館

「アトランティコ手稿」は、1119紙葉を誇る最も重要なレオナルドの手稿で、65cm×44cmの大判の紙に切り取られたデッサンやメモが貼られている。その内容は、数学、幾何学、天文学、植物学、動物学、土木工学、軍事技術その他多岐にわたっている。

>図書館の内部はこんな感じ。

レオナルドは解剖手稿の中で「私がここに記したいっさいを本当に成し遂げたのか否かは、私が書いた120冊のノートが裁定をくだしてくれることであろう。ここに至る道のりは長かったが、それは富を求めての仕事をやっていたからでも、怠けていたからでもなく、単に時間が足りなかったからにすぎない。」と書いている。つまり全部で120冊ものノートが存在していたことを教えているわけだが、そのうち3分の2は失われてしまっている。
レオナルドは弟子のメルツィにこれらのノート全てを譲り1519年にこの世を去った。1570年にメルツィが死去するとノートはヨーロッパ中に散逸し始めるが、ポンペオ・レオーニという人物がその多くを蒐集して編集した。主に芸術系デッサンを集めたものは「ウィンザー素描集」に、主に科学技術の研究を集めたものは「アトランティコ手稿」になった。レオナルドの手稿がアンブロジアーナ図書館所蔵になったのは1637年1月で、ガレアッツォ・アルコナーティ伯爵によって寄贈されている。

ところが1796年になると、ナポレオン・ボナパルトの軍がミラノに入り、戦利品としてレオナルドの手稿はパリに移送されてしまう。その後ワーテルローの戦いでナポレオンが敗れると、アトランティコ手稿はミラノのアンブロジアーナ図書館に戻された。そのままフランスに残った12冊の手稿はパリ手稿となり、現在もフランス学士院に所蔵されている。

(レオナルド・ダ・ヴィンチ アトランティコ手稿~Leonado3&ATUMより抜粋)


$レオナルド・ダ・ヴィンチのノート-アンブロジアーナ図書館

$レオナルド・ダ・ヴィンチのノート-アンブロジアーナ図書館

回廊にずらりと並んだ石造の中にレオナルドもいる。

$レオナルド・ダ・ヴィンチのノート-アンブロジアーナ絵画館


同じ建物内には絵画館があり、ボッティチェリの「天蓋の聖母」、カラバッジョの「果物かご」やラファエロの「アテネの学堂」のカルトーネ、ティツィアーノの「東方三賢者の礼拝」、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチの「音楽家の肖像」が展示されている。またレオナルドの弟子サライ、デ・プレディス、ルイーニなどの作品もあり、レオナルドが弟子に与えた影響を実際に観ることができる。
レオナルドの弟子の絵画はブレラ絵画館でも観ることが出来る。ロンバルディア派とヴェネツィア派の作品が充実した美術館で、ラファエロの「聖母の結婚」も展示されている。

>アンブロジアーナ図書館・絵画館オフィシャルサイト