タバコの火は手で消すもの | 本光寺住職のダラブログ

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これからのお寺は変わらなければ。「人間ダラといわれて一人前」を掲げる住職の、御門徒さんとのふれあいブログ、略して「ダラブロ」

 今年の1月東京で、中学生数人が図書館で一人の男性から注意されたことを根に持ち、腹いせにその男を近くの公園で叩き殺したという悲惨な事件がありました。

 その中学生の中の一人の母親が「今までに、子供を一度も叱ったことがなかった」とか、「子供をどのように叱ったらよいか、分からなかった」とか、「叱らないに越したことはないですもの」などと、言っていると聞いて私は呆れてしまいました。
このように自分の子供でさえ叱ることができない親、子供を他人の子供のように遠慮勝ちな親、子供の無分別な言動にしっかり諭せない親、いやに物分りのよすぎる親など、親であって親でない不自然な親子関係が事件が起る度に見えてきます。

 さて、私の寺でも以前、新米坊主がお仏前にお供えしたお仏器(ご飯を盛る器)を流しで洗っている時に、ふと私が流し台のゴミ受けを見ると、網に沢山の流し落とした飯粒がゴミと一緒に残っていました。それを見た私は、厳しい口調で「何しているんだ!勿体無い。今、ここでこのご飯粒をみな食べろ!!」と叱り、私の見ている目の前でさらえさせ、全部食べさせたことがあります。叱る時はそのタイミングが大事で、好機を逸すると効果がないものです。

かえる 私も、若い時分に外でタバコの火を足で消していたら、女房の父親が「火をそのように粗末にすると、自分の家が火事になるぞ」と注意されたことがありました。大切な火や水を日頃、粗末にしていると、将来きっとその火や水で泣かされることがあるだろう。タバコの火を足で消すなど以っての外、とたしなめられました。この時、私は尤もなことだと思い、以来、路上などでタバコの火を足で消せなくなって仕舞いました。

 私にはこの箴言が大変効き目があったようです。私たちは過去に褒められたり、おだてられたことより、むしろ、注意されたり、叱られたことの方が、不思議と記憶に残っているものです。また、それが人生の教訓にもなっていることが多いのではないでしょうか。

住職の口癖
過ちをしない人なんて、いません。
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