歴史の「もしも」 | 不可侵の書斎

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妄言多謝

 歴史が議題になり、仮定の話になると必ずといっていいほど登場する「歴史にもしも(if)はないとは言いますが……」。この常套句、一体誰が言い始めたのだろう。



岩波ジュニア新書の「フランス革命――歴史における劇薬」(遅塚忠躬著)は良書の多い岩波ジュニアの中でも傑作の類だと思う。分析の面白さ、歴史への愛情、人間愛が本書の基底にあり、遅塚氏の青年読者への信頼、そして情熱的な語りかけは感動的ですらある。

私がこの本を愛する理由の一つは、革命に登場する人物たちの動機に触れている点である。バルナーヴ、ロラン夫人、ロベスピエールたちが、人間の尊厳を踏みにじられる経験をして革命家となり、旧体制(アンシャン・レジーム)に立ち向かっていったことが書かれている。

遅塚氏は同書で「歴史における『もしも』」と題して次のように書いている。




   劇薬(フランス革命のこと)なしですませることもできたのではないか、と考えることは、一般的に言えば、歴史における「偶然」とか人間の「自由意志」とかの作用をどう考えるか、という問題につながります。たとえば、個人の歴史、つまり人生の歩みについては、結婚だの就職だのというできごとに際して、偶然や自由意志が大きな作用をしていることは言うまでもありません。フランス革命の歴史においても、あるていどまでは同じことが言えます。(中略)個人の人生におけるのと同様に、歴史においても、偶然や自由意志の作用を無視することはできません。つまり、歴史において「もしも」を考えることは、かならずしも無意味ではなく、もしも何かがあったら(あるいはなかったら)、劇薬なしですませることもできただろう、と考えてもよいのです。




内田樹先生は『街場のアメリカ論』(文春文庫)の中で「現場にたまたまいる個人の役割」という文章で、遅塚氏の記述をより一般化して敷衍してくれている。日本陸軍における山県有朋の役割などに言及した後に続く部分で、長くなるが引用する。

  

こういう人間的ファクターの重要性をあえて看過して、誰がいても誰がやっても「同じ政策」が採択され、今ここにあるような日本になっていただろうと決めつけるのは、ずいぶん自己中心的な発想だし、今ある日本の状態(ステイタス・クオ)を固定化する考え方につながるんじゃないかと思います。誰がいても歴史は変わらないということは、今ここにある社会のあり方が「あるべき姿」であると言明しているのと同じことです。(中略)

「歴史に『もしも』はない」と言って、可能性についての吟味をそんなに気楽に退けてしまっていいんでしょうか?そういう決めつけは、やはり過去についてのある種の想像力(それは未来についての想像力と同質のものだと私は思います)を封殺しまっているような気がします。

  歴史の分岐点で転轍機のハンドルを切るのは最終的には一人一人の人間です。他の全員がハンドルを切ったけれど、その人だけがハンドルを切らなかったせいで、歴史の線路の方位が微妙に何度かずれて、それが何年か何十年か後には巨大な距離を生み出すということはあると思うんです。

 私が言いたいのは、私たちの前にひろがる未来が可塑的であるのと同じように、過去のすべての時点で未来は可塑的であったということ、だからそのそれぞれの転轍のときに「ありえたどんな未来」があったのかを列挙することは可能だし、それは人間の可能性や自由度について、それぞれの歴史状況を生きた人間に課された制約と同じくらい多くのことを教えてくれると思います。(中略)

   歴史の流れは、わずかな入力の差で劇的に変わることがありうる複雑系です。(中略)だから、歴史に「もしも」を導入するというのは、単にSF的想像力を暴走させてみるということではなくて、一人の人間が世界の運行にどれくらい関与することができるのかについて考えることであって、それはそのまま自分が今投じられている世界の構造についてあふれるばかりの好奇心を持って観察することに、さらにはこの自分自身の一挙手一投足がそのまま未来に対して決定的な影響力を及ぼすこともあるのだという希望を持つことに通じると思うのです。




結論。決定論に与することで得られるメリットは一つもないと思う。大いに、個々人の今の行動が未来に与える影響を信じようではないか。そして余計な枕詞は抜きにして、大いに歴史の「もしも」を語ろうじゃないか。



もしも2012年12月の衆院選で自民党が大勝することがなければ、安倍晋三氏が首席宰相の座に返り咲くこともなかっただろう。


もしも安倍氏が首相でなかったならば、「戦後レジーム」を脱却して、戦前体制(アンシャン・レジーム)へ回帰することもなかっただろう。


もしも公明党が真に「平和の党」であったならば、集団的自衛権行使容認の閣議決定はなく、日本は平和国家としての歩みを止めてしまうことはなかっただろう。


もしも今回の閣議決定がなかったならば、自衛軍が戦闘で人を殺し、殺されるという近現代日本史の悲劇を繰り返すことはなかっただろう……。