久しぶりにブログ書くなぁ。卒業したし進路先もある程度確定してきたし。ブログ復活します。
最初はずっと落語家になろうと思ってたけど、まさか欽ちゃんが同じ学部に入学するとは・・・。公立の学費と私立の学費比べ物にならにけど、でもそんな経験できないしな。両親に頭を下げなきゃいかんな。
まぁまぁ人生には3つの坂があるって言ったけど本当だな。上り坂下り坂、そしてまさかwww
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最初はずっと落語家になろうと思ってたけど、まさか欽ちゃんが同じ学部に入学するとは・・・。公立の学費と私立の学費比べ物にならにけど、でもそんな経験できないしな。両親に頭を下げなきゃいかんな。
まぁまぁ人生には3つの坂があるって言ったけど本当だな。上り坂下り坂、そしてまさかwww
馬つなぎ石とは、明治時代、荷物を運ぶ馬を店先につないでおくための高さ3,40cmほどで穴の開いた石である。本町通りには、いまでも残されている。まさに、馬だけではなく、過去と今をつなぐ石でもある。
韮崎市民俗資料館の学芸員名取さんの案内で本町通りを歩いた。本町通りは下宿交差点から北にホテルルートインコート韮崎までの通りのことである。韮崎市は江戸時代に甲州街道が整備され著しく発達した。江戸と信濃をつなぐ甲州街道、甲州街道から分岐し信州佐久をつなぐ佐久往還、韮崎宿から鰍沢宿をつなぐ駿信往還(現・国道52号線)の3本の重要な道がつながる場所であった。同じころ、富士川舟運が開かれ船着き場(舟山橋付近)が出来、塩や海産物が運ばれた。「韮崎は道と道とをつなぎ、陸、川をつなぐ交通の要所だったんだよ。」と話してくれた。韮崎は宿場町として発達した。研究では、おそらく1640年~1645年には韮崎宿が成立したとのこと。
江戸時代は、荷物を運ぶのは人と馬であった。日には人よりも馬のほうが多い時もあったそうだ。そのため、韮崎宿の人々は知恵をだしたそうだ。今日でも見ることが出来る。一つは、馬を止めておく馬つなぎ石。いまではたった三つ残されているだけである。一つは上田商店さんの軒下。もう二つは、井筒屋醤油さんの向かいだ。もう一つの知恵は、のこぎり状の家並みである。理由は、馬で賑って砂ぼこり立ち北風に乗って家に入らないようにするため。また、運んだり運ばれたりする荷物が通りの邪魔にならないようにすらためである。そのことで家が道路に対し少し角度をつけて建てられている。そのため全体を見るとのこぎりの刃のように見える。この知恵はただ道を通っていると気づき難いが、知っているとなかなか面白いものだ。一度は見てみるとよいだろう。なにか発見できるのではないだろうか。
今、馬つなぎ石が増えた。それは、韮崎の商店街で行われている「のれん」のまちなみという活動だ。各商店でのれんを店先にかけるという活動だ。店先に置くのれんの台。それが馬つなぎ石をモチーフにしている。
歩きながら、どんなにたくさん馬がいたか「韮崎節」という歌に残っているとのことで歌ってくれた。〈~韮崎宿は 馬グソ宿 雨がふりゃ馬糞の水で 飯ァ炊くゥ ヨイヨイ~〉
次には、民俗資料館へ向かった。資料館には江戸時代、明治時代に実際に韮崎宿で使われていた道具などを見ることが出来た。その時代の人々が過していた日々を感じることが出来た。
名取さんは、これからの本町通りは、馬つなぎ石をモチーフにした馬つなぎまんじゅうのあるうさぎ屋さんや、古くから残る井筒屋さんなどの「今」と「昔」のつながりを生かしていってほしいと語っていた。
自分のまわりに気づかずにいる遺跡があるだろう。見つけてみて、一度でも調べてみるといいだろう。知らなかったことを知ることで地元をもっと好きになることだろう。自分のつながりを見ることもできるのではないだろうか。
今日は雪の中ラソバ寄席でした。
師匠は、一本早い電車に乗りなんとか来れたそうです。
途中車で 拾ってもらって会場に連れってもらいました。
車の中の話は 少しすごかった。夢のような話だった。
上げた演目は「宿の富」と「真田小僧」でした。
宿の富は、一人気違いのところは 本当に面白かったし、終盤は笑いが絶えなかった。
真田小僧は 金ちゃんの話しているときのは 大人びていて何ともよかった。
今回のワークショップは、久しぶりに行ったけど、人の多いこと。
一人の持ち時間は8分だったけど皆軽く超えてたな。www
けど、皆 上手くなってる。 聞いてて 本当に面白い。
一笑さんの 芝浜には 驚いたけどね。うまかった。今度は 通しで聞きたいな。
自分は、湯屋番を稽古つけてもらったけど、やってるこっちまで 楽しくて しょうがなかった。
たくさん練習して、高座にかけたいものだ。