日本オペラ協会公演【ニングル】
2024年 2月11日 公演
はじめに
関係者の皆様に心からの敬意と深い愛を込めて。
終っちゃったなぁぁ…
『ニングル』がオペラになると知った私は、
倉本聰氏が数年の間に改訂を重ねた戯曲台本のうちの二種類を繰り返し読んだ。
氏の対談やら演出ノートも読んだし演劇映像も観たそして、これがいったいどんなオペラになるのだろう…と。公演まで長いなぁと感じて待ち遠しくて 待ちわびて。
でもいざその日が近づいてくるとだんだん、
いや、まだ始まらんで欲しい、終らんで欲しいってなって。
観たいけど、早く観たくて堪らないけど、けど、けど、 終わって欲しくない。という……そんな複雑な心持ちで迎えた日
2月11日。
3公演あるうちの、中日の幕が開いた。
漆黒の闇、静寂、風の音…
オケピの灯りさえない真っ暗闇に響く風の音は
布と木が擦れることで音を発する楽器、風車。
そんな冒頭から、胸に込み上げてくるものがあって既 に目が潤む。
オケピから3列目でみる世界。
この距離で見るオペラの大舞台は今まで何度もあるのに、それは想像を遥かに、遥かに、遥かに超えていた。
メロディラインが生きて躍動している、劇的で美しい音楽。
どの曲もどの曲も耳に残り胸に響き、心と身体を捉える。胸が高まる。血が湧きあがる。
そして、時折加わる陰歌合唱の響きとオケの融合がこれまた美しいのなんの…
その音楽に負けることも、逆に踏み潰したりすることもせず、一体となって響きわたる、全ての登場人物たちの鼓動、息づかい、声、目、眼差し…魂の叫び。
ひとりひとりの歌が、歌じゃない。歌なんだけど、歌じゃない。歌を超越してる。アリアでさえも。
つまり、上手いけど声色も強弱も変わらなければ色も変わらない。とか、
聞かせどころを客席に向けて主調するのが先行してる。とか、
物語から抜け出して 突如、楽譜を懸命になぞるための呼吸に特化した『歌手』になる。とか……
そういう類の歌じゃない。
彼らの歌は、物語の中の人物としての、人間の持つ、 生命の呼吸の先にある、ことば。
ことばであり、魂の叫びだった。
苦悩、喘ぎ、嘆き、苦しみ、悲しみ、後悔、怒り、葛藤、絶望、孤独、狂気、懺悔、喜び、希望…
それらを表現するための繊細な呼吸と、声。
緩急や強弱や色が伴った歌唱。
それに伴った目、表情。
全く技巧に見えない、聞こえない。
技巧のお披露目じゃない。
それを、舞台上の全員が体現してる。
しかも客席に向けてじゃなくて、ちゃんと、己だったり 物語の中の対象となるべき相手に向けて、ちゃんとね、
『対話』
してる。
それが結果、リアルになって客席にとんでくる。私たちの胸に届けられる。
その感動は、「アリアを上手く歌いあげたねー! 」という感動とは全然別のところにあるから、拍手ができないし Bravo の声も出ない。
観ている者はそれほどに舞台の中の世界に没頭してしまっているから。
そういう歌唱。
そして更には『型』じゃない演技。
音楽という決められた速度やテンポや尺の中に動作を収めなくてはいけないということや、
視界の片隅にタクトを収めなくてはいけないという足枷があって、
そういう縛りの中で様々なことを身体や動作で表現するということは想像以上に難儀。
それは、そういう意味では自由でいられる演劇畑の私が 初めてオペラの合唱で舞台に立ったときに痛感したこと。
なるほどだから、オペラの世界では「驚いてる風」「喜んでる風」「悲しんでる風」「泣いてる風」……そんな風、=『型』が存在していて、つまるところ、
『それっぽい演技』が通例なんだ、オペラの世界では仕方ないんだろうな、
と思うことにしていた。
本来なら、ある動作から 次の動作までの間にあるはずの理由とか、
気持ちの切り替えの過程となる、細やかな表現……呼吸とか目使いとか……がすっぽり抜けていて、
???なんで今、数秒前の感情と180度違う行動にでたん?!って ポロポロ溢れる『?』に唖然とすることが多々あっても、
「オペラというものはそういうもの」と思うことにしていた。
いや、その考えは 岩田達宗氏に出逢ってから全く覆されてきたのだけれども、この公演では増して 私の期待を遥かに超えていた。
それにしてもこのキャスト陣、特筆すべきは 表現や演技だけではない。
あんなに間近でかぶりついていたのに歌い手が指揮を捉えるときに生じがちなほんの一瞬の「素」、それが全く見当たらなかった。
それは、観ている者が 現実の世界に引き戻されてしまう瞬間が無い。ということを意味する。
なんということだ。彼らの目と呼吸は、各々の役としての真実をずっと、終始宿し続けていた。
足枷の中で、これらのことを、この規模の大舞台でアンサンブルも含め、全出演者が全幕やり通す。
それがどんなにどんなに高度なことなのか……
想像しただけで泣けてくる。
冒頭、激しく踊りながら 生声で歌って、客席中に響き渡らせるとかもそうだけどさ、ほんと、こんなことまでされたらもう、最強やんな。
どんなミュージカル人も、大舞台俳優女優も敵わんやん。
この日の公演を観て、オペラというものの固定概念を覆されたお客さんは多かったんじゃないかと思うなぁ…
まず、村松恒矢さん演じるユタと 渡辺康さん演じる才三のコントラスト。
このコントラストが本当に見事だった。
特に苦悩の表現は、ふたりの方向性が全く異なっていて 大物俳優顔負けだった。
この物語の中ではこのコントラストが重要な軸だと思う。
この軸がぼやけると、周囲がどんなに頑張っても、全てぼやけてしまう。
ただの仕事仲間ではなく、竹馬の友、親友。かつ、才三の嫁さんであるミクリは ユタの妹。つまり、家族でもある。
それなのにそれぞれ、相反し、ふたりとも追い詰められていく。
その見せ方がそれぞれ明確でありながら、被らない。
そして、ふたりとも、キャラクター作りにいっこもブレがない。
これは今回のキャスト全員に言えることではあるけれども、え、この人いったいどんな人なん😰?と疑問に思わせたり、キャラがブレてしまうような、その場しのぎの取って付けた表現がない。
髪の毛の1本、爪の先までその人物そのもの。
目からさえ息が出てるんじゃないかと思うくらいの眼光、それがどんどん荒んでいくユタ。
家族や友人と真実の狭間で葛藤しながらも『静』の中に揺ぎのない青い炎を秘めていく才三。
ユタの、様々な想いが交錯し、変化していく様は歌も表情も実に見事だったし
才三の内なる信念と心の叫びは、フォルテで力任せに叫び通された歌ではなく、静かさと強さの抑揚が、却ってより一層、強い魂の叫びとなり、 その悲痛さに胸を打たれた。
演劇やドラマでも、始終泣きわめき、叫び通す演技が『迫真の演技』とか、『全身全霊』って絶賛されるけれど、実はそういう演技のほうが楽だということを知ってしまっているので、私はそれを『迫真の演技』とは呼ばない。
好みの問題じゃん?と言われたらそうかもしれないけれど感情の爆発のさせ方が そういった単純明快なものとか、これ見よがしのものではなく、
繊細で丁寧で、深く豊かな表現のこのふたりのユタと才三を見ることができて本当に良かった。
このふたりのユタと才三がぶれない軸として在ったからこそ、私のこの作品の観方も定まったと思う。
才三の最期を どう表現するのだろうと観る前から思い巡らせていたけれど、なるほど、そうきたか!と。
大切に想う木と抱きしめあうかのように共に果てる表現はとても衝撃的で、切なかった。
そして、相樂和子さんのミクリ。ユタの妹であり才三の妻。公演の1週間前、私はFbの記事でこう書いた。
「資料を読み重ねていくうちに、浮わついたドキドキワクワクはどんどんどんどん 胸に突き刺さり腹の底にズッシリとくるものに変わって流していた涎は違うものに変わった。」と。
そのきっかけとなった登場人物がミクリだ。
夫婦の、愛と絆と日々の生活。
それを守るために夫を山に行かせ木を伐らせる。
しかし守っていくはずだったものは自分の思いとは裏腹に崩れ落ちる。
夫の死によって…しかも自死という形で。
そうさせたのは、自分。
大木の下敷きで果てた夫。
その遺体と対面するであろうミクリ。。。
その遺体の惨さは、自分が夫にしてしまったことの鏡。 守っていくはずだった、かけがえのない、大切な大切なもの。それを、我が手で壊してしまう。
もう二度と戻らない。
戯曲台本を二周目した頃、その情景が目の前に浮かび上がり、涙が溢れた。
こんな凄絶な悲劇があるかと。
そして物語に想いを廻らせ、はっとした。周囲を見渡せば 登場人物達それぞれが親友であり、兄弟であり、親子であり 夫婦であり家族であるという、深い繋がりの中にいるのだと。
その中でおこる悲劇。
「人間の身勝手で自然を破壊することへの警鐘」という視点にばかりフォーカスしていたけれど
そのベースにあるものがくっきりと浮き彫りになったとき、この物語の重さと深さと意味がのしかかってきて愕然としたのだった。
それが私の腹の底でずっしりとした錘となった。
これを…… 演劇ではなく、オペラで、しかも大人数の大舞台でやるのか…。
そんな思いのきっかけとなったミクリだけれど、相樂さんのミクリは実に凄かった。
才三を山に行かせるときの苦しみも、才三を喪ったあとのアリアもミクリの胸の中にあるものが身体中を伝って血骨までもがギリギリと音を立てながら全て絞り出されるような表現。その息づかいと音色。
なんという声と表現……!
ピアノ、ピアニッシモが、もう、もう、凄まじく切なく、糸がピーンとはりつめたように静まり返った客席に響きわたる。とてつもない、とんでもないアリアだ……
鳥肌が立ち、涙がとまらない。
そして、あの台詞。戯曲本を読みながら才三の最期とミクリの独白に涙している私に、追い討ちをかけ絶望に突き落とした台詞。
「いけない私、うちの人出るとき 雪の支度をしてあげるのを忘れた 」
演者にとっても 聞く者にとってもこれ程残酷な台詞があるだろうか。
言い方(歌い方)によっては、それまでの全て…才三の最期までもが台無しになってしまうこの台詞を、相樂さんのミクリは本物の生きたことばとして奏でていて
ミクリの想いがすべてリアルに心につきささった。
そしてそれは才三が温かく優しく悲痛に奏でた最期の言葉と一対となって私の心と共鳴し、私自身が壊れてしまいそうなほどだった。
葛藤した末に選んだ道の先の過酷な現実に直面し
後悔と自問の渦に溺れているところにとどめを刺され、精神を患ってしまうのが光介。
精神が崩壊した役は、『それっぽい猿芝居』演技で済ませてしまうことになりかねない上、なまじそれで観客をうまく騙すことができたりするだけに、
そういう楽な演技に走らずに表現するのは難しい。
そんな役どころの独白を、喋りならまだしも、歌で表現するということがもう、想像の範疇を超えていたから、和下田大典さんがどんな光介に仕上げるのか想像できなかったしもはや敢えて想像しなかった。
そしたら、和下田大典の光介は私が今までに見たことのない和下田大典だった。
張りと厚みと深みのある、会場中に響き渡る歌声。
吐露が進むにつれてその呼吸の色が変化し、切迫感が増して強迫観念のそれに変わっていき 窮地に追い込まれていく。
破綻寸前の虚ろな目に心が痛むもつかの間、
まるで亡き父親が憑依したような声と表現で 父の言葉を己に呟き語る異常さ。
同時に、照明さんの光介の捉え方が絶妙で
彼の歪んだ表情に陰影が狂気を増長し、息をのむ独壇場だった。
駐車場で田植えをしている光介のもとに集まってくる村中の人々、友人、そして家族…そのリアル感に更に驚愕した。
奇行の光介をとり囲む人々の表情、歩き方、動作…手足の先まで行き届いた表現。
その光景に鳥肌が立った。
舞台を見ているのか現実にいるのか区別がつかなくなる感覚に襲われた。
そして、その場面を思い返して改めて思う。 きっとそんな共演者の皆さんだったから、彼はあの光介ができたのだと。
仲間、友人、家族…その「輪」。その繋がり、その根底。それを 絶え間なくしっかり表現し続けている共演者の皆さんだったから。
「 こいつら何、 え…!? 姉ちゃん!!」それは、まるで子供のような、困惑と不安と恐怖が入り雑じった悲痛な叫びだった。
ユタの妻、かやは光介の姉でもある。
長島由佳さんのかやは、美しく聡明で、弟への深い愛情を見せ続けていた。
壊れゆく弟を必死に守ろうとする姿がとても切なくて、だからこそ 光介の叫びはリアルな叫びとなり、姉弟の絆を想うと胸が掴まれる思いにかられた。
病院から抜け出してきた光介の良き理解者となった信ちゃんこと信次。
勝又康介さんの信次はほんとに良い奴だったなぁー!!光介にコートをかけるところも井戸掘りも、水を発見したときも。
まだたぶん、薬物療法の後遺症とかでちゃんと正常にはなっていないであろう光介に寄り添うその一挙手一投足に、真の友情や愛が垣間見れて泣けた。
信ちゃんがいてくれて良かったね、光介。って。
決別してしまったユタと才三に対比してとういか… 木々が新しく芽吹くように 芽吹いていく友情に、明るい兆しを見た。
泉良平さんの民吉は、老兵がポツリポツリ語る中に説得力があるような表現と、年老いてあまり自由のきかない身体が、どんどん進み行く時代の中で 取り残されていくさまを投影し、若者たちとの対比となって物語の中で強いメッセージを放つ。
自分の木を伐りに行く前の思い詰めた思案の表情と、『旅立ち』の前に皆の頭を撫でながら浮かべる慈しみと愛おしさの溢れた笑みがとても印象的で、その慈愛は、この物語を希望の光に繋ぐ象徴に見えた。
話すことができないスカンポは井上華那さん。
溌剌とした表情が可愛かった。
大人が子供の役を演るっていうだけでも難しい上に手話。
手話は、覚えるだけでも大変だったろうなぁ…
その手話を、完全に自分のものとしてそれを更にスカンポのものにする。そして更に、そこに豊かな感情をのせて表現する。
違和感なく見ていたけれど、きっとスカンポを完成させるまで、相当努力されたに違いないと思うと、一層スカンポが可愛く、悲劇が続く物語の中で、その純心はまあるい光の玉のように煜いていた。
そして、人々を見守り、威風堂々たる山田大智さんのカムイと、スカンポの亡き母、 絆の象徴のかつらは光岡暁恵さん。
ふたりが奏でる、諭すような、それでいて包み込むようなことばは、くっきりと際立ち、私たちの胸に浸透ししっかりと刻まれる。
そしてきわめつけは アンサンブルの皆さん。
アンサンブルの皆さんの豊かで生きた表現と奏でることばによって ピエベツの村は より一層リアルに迫るものとなっていた。
倉本聰氏の戯曲渡辺俊幸氏の作曲岩田達宗氏の演出この三つ巴は まさに神霊宿るが如く。
そこに、倉本聰氏の信頼厚い吉田雄生氏の脚本。
歌い手に寄り添う田中佑子氏の音楽。
そして 物語と人物たちに寄り添う表現が見事な、森の木々、ダンサーの皆さん。
東京フィルハーモニー交響楽団 の素晴らしい演奏。
陰影の美しい照明。
そんな、万全以上の、豪華な器の中。
観賞用にきれいに無難に上手く収まるのではなく、
その器を良い意味で超えて、自らが立体化し、 全身全霊で躍動し生きていた出演者たち。
それは、衝撃の 圧巻のドラマだった。
終演後、離れた席で観ていた、オペラ好きの友人が私の席に駆け寄ってきて興奮しながら言った。
「これがオペラなんですね!! そして、今日の舞台のアリアが本物のアリアなんだと思いました!!」
と。
この舞台を観れて、本当に生きてて良かったと……。
いつもならここの、この演出が……😍 あそこの、あの演出が…💖と感想を真っ先に述べるところだけれど、
そういう岩田さんの演出の中に無難におさまるのではなく、
それを全身で受け止め、何倍もの魂として放出し熱いドラマを見せてくれた出演者の皆さんの感想を書いていたら 異常に長くなってしまった😅😂
推敲もせず 迸る想いを垂れ流しだけどこういうのも良いかな、って もう開き直り。
ほんとは、書き留めておきたいことがまだまだ、まだまだ山程あるんだけどね。
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