【THE 野木亜紀子 × 塚原あゆ子×新井順子】再び !


 映画『ラストマイル』(ネタバレなし)


 大河ドラマは『八重の桜』の真っ最中。 

會津藩主 松平容保を 綾野剛が演じていて、 

その役者っぷりに それまで風間杜夫演じる松平容保ひとすじだった私の心が揺らぎ始めた頃 

TBSで『空飛ぶ広報室』が始まった。

 

『八重の桜』の松平容保と『空飛ぶ広報室』の空井大祐と。 

撮影が同じ時期に、どちらも深い役を行き来する
綾野剛の引き出しも熱量もほんとすごかったんだけど


 『空飛ぶ広報室』の脚本、これがまためちゃ良くて。


 「この脚本、誰っっ?! 」ってなって。


 それから 野木亜紀子という脚本家を追いかけるように
『重版出来』を観、『逃げ恥』を観…… 


 で、何故『アンナチュラル』を観なかったのか🤔 


初・野木亜紀子 × 塚原あゆ子× 新井順子の三つ巴物は
『アンナチュラル』を飛び越えて

『MIU 404』である。


いや~ ハマッた!

原作物ではない野木さんのオリジナル。


私達が直面している、或いは
直面していることに気付かない人さえいるであろう
社会問題の数々。

それらに切り込みながらも
しっかりエンターテイメント。 

そう、ちゃんとエンターテイメント。 

大きく頷けるもの、熱くさせるもの、
考えさせられるもの…
でも、ちゃんとエンターテイメント。


見事な手腕だった。
痛快だった、凄かった、

いろんなもののバランスが、ほんとに。 


そして 

チームワークの良さと熱量が伝わってきた役者たちも見事だったし 

得田真裕の音楽も 

米津玄師の『感電』も、全部。 


で。
あれから4年後の今!! 

三つ巴復活の!! 

映画『ラストマイル』 


舞台が
私が数年前に勤めていた業界、
ロジスティックス。  

私は出荷部門の最初の関門、投入レーンで
私が采配を間違えば予定日時に出荷できない
という責務に就いてた。


なので、私にとってはいろんなことがもう、それはそれはもう、、、、
ものすご~くめちくちゃ、リアル😂😅😅💦💦 


労基法規約に基づいた契約最長期間満了により、一旦離職を余儀なくされた。 

上司からも周囲からも頼りにされていた現場だったし、頼りにされていることが 自分の存在価値になっていた。


だから最初は戻るつもりでいた。

なのに何故戻らなかったのか… 

その答えは、この映画の中に。 


私が勤務していたのは、とある大手メーカーの下請け倉庫だったけれど 

映画の舞台のモデルとなっているのは 最大ショッピングサイト、Aでしょうね。 


私が物流にいた当時、
A から転職してきた人達が一様に口にしていた Aのロジスティックス現場にまつわる話の数々。 

 私が耳にしたそれらの数々が この映画の中で
甦っている…😱😱 


こんなに……リアルに描いて……
大丈夫なんか、野木さん😱 


そして
個人的には 

この映画の中で物流の現場で働く人々とその環境に関する ある台詞が
ほんとに胸に刺さって 

涙が溢れてしまった。 


フィクションだけど、フィクションじゃない。 

しっかりエンターテイメントでありながら 

リアルと密接な世界。 


そして、 表面だけを捉えて批判する前に

「?」を感じたら それを考察することに、

その意味を探ることにも、この作品の醍醐味がある。 


物流は私達と密接な、切っても切れない世界。 

沢山の人に観て欲しいと感じました。 


シェアード・ユニバースとは言うものの、大丈夫、 

『アンナチュラル』や『MIU404』を観ていなかった人でも、充分に堪能できるように作られています。 

 

そして、米津玄師の『がらくた』も 

映画を観た後に、きっとその味わいが変化すると思う!! 





関係者の皆様に心からの敬意をこめて



『第三舞台』との出逢いは 高校演劇時代。


それは衝撃でした。


演劇界は第二次小劇ブーム真っ只中。


演劇人じゃなくても耳にする名前

野田秀樹さん、三谷幸喜さん

生瀬勝久さん、渡辺えり子さん…それぞれ、同じ年代にプロの小劇団を牽引していた人たちです。


その中でも 群を抜いていたのが

鴻上尚史さん率いる 『第三舞台』でした。

演劇に詳しくない人でも

筧利夫さんや勝村政信さんはご存知のはず。

『第三舞台』は、彼らが所属されていた劇団です。


それまで

シェイクスピアものや、海外戯曲

文学座や俳優座のような新劇系、

日本童話ベースの戯曲や学生向け戯曲にしか

免疫がなかった私。

小劇も、知っていたのは 風間杜夫さんや平田みつるさんがいらした、つかこうへいさんの舞台くらい。


第一次小劇場ブーム…寺山修司とか いわゆるアングラ系演劇とは大学に入ってからの出逢いなので

『第三舞台』とはそれをすっとばしての出逢いでした。



床に思いっきり叩きつけられたような衝撃だった。

打ちのめされた。

ショックだった。


悔しかった。


悔し紛れついでに、

こんな演劇が存在していいのか?!


と思った 。


認めたくなかった。(笑)   

そんな生意気盛りな高校生😅


『第三舞台』に出逢わなかったら

私の視野は狭いままだったろうし

人との関わり方も小さく狭いままだったろうし

価値観や感性も違ってたろうし

イギリスに留学もしてなかったと思う。


さて。

そんな 『第三舞台』と言えばのひとつが

『朝日のような夕日をつれて』なわけですが

これは 私はピンポイントで1991年版オンリーだった。


その前の87年以前は まだ出逢ってなかったし

1997年の時はイギリスに住んでいたし

2014年は いろいろが合わなくて断念したから。


だから 今回の、2024年版は

1991年版からのワープなわけです。


正直、観に行こうかどうか迷いました、随分。


青春時代に受けたあの衝撃の記憶を

美しいままで保存しておきたいとか

役者が全員あの時とは違うからとか…。


結論。


行って良かった。


大学時代、足しげく通った紀伊國屋書店、

小劇場と言えばの、懐かしの紀伊國屋ホール。


あの空間ってすごいよね。

もちろん、大劇場には大劇場の良さがある。

神秘的な荘厳さとか 身が引き締まる高揚感とか。

けど、小劇場で味わう空気の音や匂いは

大劇場にはないもので、

そこで味わう高揚感は、大劇場でのそれとは別のもの。

身体が喜びの声をあげて一気にあの頃に戻る。


そしてーーー

溢れ迫りくる言葉の波、波、波、波!

うねり、怒濤🤣🤣🤣

そして、 いやちょと待て、パワーアップしてるやん、熱量😂


全身全霊で言葉を発し動き続ける役者たちから

しぶきとなって散る汗が 

美しい灯りの下でキラキラ光って

舞台効果のひとつとなる、輪をかけた美しさ。

前から13列目でもそれがハッキリと黙視できる。


押し流されないように 必死で食らいつく。


91年版、若さゆえに消化できなかった言葉の数々が

今や 脳の老朽化故に 取りこぼしそうになる。

いや、噓、ちょっと取りこぼした、正直😂

だけど、たるんでた脳が

覚醒していく音が聞こえた。

頭の中、心の中、いろんなものが剥がれていく。

これがまた心地良いんだな。


ストーリーの基盤は同じだけれど

時事ネタは全て現行版。


やっぱり『変わらない。そして 変わり続ける』んだなぁ…


子供番組から政治や科学まで

幅広く網羅した時事を織り混ぜた台詞の、絶え間ない放出。

まるで間髪なし1000本ノック。

しかもショート向けの、鬼キレッキレなやつ。

エラーした玉をとりに行ってるうちにまた打ち込まれるというね🤣💦

構えることすらできないねん😂

会場はもちろん、どっかんどっかん。


お客さんの年齢層は ほぼ 私くらい~以上。

これはおそらく、間違いなく 第三舞台愛好者たち。

若いコたちも結構いた。

これはおそらく、鴻上さんとか第三舞台ではなく

出演されてる役者さんたちのファンかな。

あとは、演劇人たち。


客層がどうであれ

客席とのエネルギーの交換で生まれる世界

これがまさに、“ 第三舞台 ” 

もう『第三舞台』という劇団は無いのに

つい 何度も口が滑って

『第三舞台』と口走ってしまう、そんなステージだった。


このボルテージで シングルキャストで

1ヶ月。しかもそのうち数日はマチソワ。

マチソワ…

そう、私が観た回は ソワレだった。

なのに何故あんな異常なボルテージなのだ😂

発声も身体も衰えもせず。


これは、あらゆる舞台人は勿論だけど

ふだん演劇を観ない人でも

舞台人じゃない人でも

読書が好きという人には是非体感してもらいたい。

『観る』っていうか、『体感』。

言葉のアトラクションだよもはや。


三度の飯よりも書物が好きな自分だけれど、

書物を読めば読むほど、知識が備わるけれど、

実体験や経験を数多く積まずに書物に頼ると

実は理解してるつもりなだけで

理解してなかったり

 とか

間違った捉え方をしていたり

 とか

書物で得た知識を強靭な武器だと勘違いしたまま

脇目もふらず突き進んだり

 とか

書物で培っただけの固定概念だとか

正統とか伝統

 とかに

しがみつくことだけに注力しがちになる。


専門家や研究家と称する人たちや 著名人たちが

書物やネットに書いたことが全てで正しいと、

マインドコントロールされていく。


また

実体験や経験をさほどしていないのに

それらの書物でインプットしただけのことを 

あたかも自らも経験者のように

無垢な人々に撒き散らす人もいる。


そういうものに直面しつづけると

脳ミソも心も 

何度も揚げ物をした、

もしくは 限界を越えて走り続けたエンジンの、

ドロドロの油の渦、

真っ黒なブラックホールのような油の闇 になって


ある日、思考が停止する。


けど

『朝日…』を観ると 至るところに新しい扉があって

またのそ向こうに扉があって

また…

って、マトリョーシカみたいに。


そうしているうちに、自分がいかに

凝り固まった脳を後生大事にして

胡座をかいていたかに気づかされる。

そんな自分がリセットされる。

意味のないものの意味に遭遇する

という不思議な感覚。


何か作品を読んだり観たりした時に

全て意味を見出だそうとしてしまいがちだけれど

そうしなくてもいいものがあってもいいはずだ。


言葉って結局のところなんなのだろう、

自分ってなんだろう、

他者ってなんだろう、

自分と他者の繋がりってなんだろう……


っていう その答えは

これを観たら変わるかもしれないし

変わらないかもしれない。

答えは出ないかもしれない。

待ち続けてもゴドーは現れないように。

ゴドーが何者なのかは、見る人によって違うように。


それでも、新しい扉が そこにあるから。

新しい扉が生まれ続けるから。


ゴドーを待つより 探しに出てみるのも

いいかも知れない。


「書を捨てよ 町へ出よう」



最後に。

懐かしかったな 135の我爱你。

135、当時よく聴いてたっけな。

美しいほどカッコいいシーン。

ズルいんだよなぁ。

むちゃくちゃしてるのに 、

バカやってるのに、

カッコいいってさ。


ほんと、ズルい。





日本オペラ協会公演【ニングル】

2024年 2月11日 公演


はじめに

関係者の皆様に心からの敬意と深い愛を込めて。


  終っちゃったなぁぁ… 


『ニングル』がオペラになると知った私は、

倉本聰氏が数年の間に改訂を重ねた戯曲台本のうちの二種類を繰り返し読んだ。

 氏の対談やら演出ノートも読んだし演劇映像も観たそして、これがいったいどんなオペラになるのだろう…と。公演まで長いなぁと感じて待ち遠しくて 待ちわびて。


でもいざその日が近づいてくるとだんだん、

いや、まだ始まらんで欲しい、終らんで欲しいってなって。

 観たいけど、早く観たくて堪らないけど、けど、けど、 終わって欲しくない。という……そんな複雑な心持ちで迎えた日


 2月11日。


 3公演あるうちの、中日の幕が開いた。

 漆黒の闇、静寂、風の音… 

 オケピの灯りさえない真っ暗闇に響く風の音は

 布と木が擦れることで音を発する楽器、風車。 


そんな冒頭から、胸に込み上げてくるものがあって既 に目が潤む。 

オケピから3列目でみる世界。

この距離で見るオペラの大舞台は今まで何度もあるのに、それは想像を遥かに、遥かに、遥かに超えていた。


メロディラインが生きて躍動している、劇的で美しい音楽。

どの曲もどの曲も耳に残り胸に響き、心と身体を捉える。胸が高まる。血が湧きあがる。 


そして、時折加わる陰歌合唱の響きとオケの融合がこれまた美しいのなんの… 

その音楽に負けることも、逆に踏み潰したりすることもせず、一体となって響きわたる、全ての登場人物たちの鼓動、息づかい、声、目、眼差し…魂の叫び。


ひとりひとりの歌が、歌じゃない。歌なんだけど、歌じゃない。歌を超越してる。アリアでさえも。


つまり、上手いけど声色も強弱も変わらなければ色も変わらない。とか、 

聞かせどころを客席に向けて主調するのが先行してる。とか、  

物語から抜け出して 突如、楽譜を懸命になぞるための呼吸に特化した『歌手』になる。とか…… 

そういう類の歌じゃない。 


彼らの歌は、物語の中の人物としての、人間の持つ、 生命の呼吸の先にある、ことば。 

ことばであり、魂の叫びだった。


苦悩、喘ぎ、嘆き、苦しみ、悲しみ、後悔、怒り、葛藤、絶望、孤独、狂気、懺悔、喜び、希望… 

それらを表現するための繊細な呼吸と、声。 

緩急や強弱や色が伴った歌唱。 

それに伴った目、表情。 

全く技巧に見えない、聞こえない。 

技巧のお披露目じゃない。

それを、舞台上の全員が体現してる。 


しかも客席に向けてじゃなくて、ちゃんと、己だったり 物語の中の対象となるべき相手に向けて、ちゃんとね、


『対話』


してる。 

それが結果、リアルになって客席にとんでくる。私たちの胸に届けられる。 


その感動は、「アリアを上手く歌いあげたねー! 」という感動とは全然別のところにあるから、拍手ができないし Bravo の声も出ない。 

観ている者はそれほどに舞台の中の世界に没頭してしまっているから。

そういう歌唱。 


そして更には『型』じゃない演技。 

音楽という決められた速度やテンポや尺の中に動作を収めなくてはいけないということや、 

視界の片隅にタクトを収めなくてはいけないという足枷があって、 

そういう縛りの中で様々なことを身体や動作で表現するということは想像以上に難儀。 

それは、そういう意味では自由でいられる演劇畑の私が 初めてオペラの合唱で舞台に立ったときに痛感したこと。 

 なるほどだから、オペラの世界では「驚いてる風」「喜んでる風」「悲しんでる風」「泣いてる風」……そんな風、=『型』が存在していて、つまるところ、

『それっぽい演技』が通例なんだ、オペラの世界では仕方ないんだろうな、

と思うことにしていた。 


本来なら、ある動作から 次の動作までの間にあるはずの理由とか、

気持ちの切り替えの過程となる、細やかな表現……呼吸とか目使いとか……がすっぽり抜けていて、 

???なんで今、数秒前の感情と180度違う行動にでたん?!って ポロポロ溢れる『?』に唖然とすることが多々あっても、 

「オペラというものはそういうもの」と思うことにしていた。 


 いや、その考えは 岩田達宗氏に出逢ってから全く覆されてきたのだけれども、この公演では増して 私の期待を遥かに超えていた。 

 それにしてもこのキャスト陣、特筆すべきは 表現や演技だけではない。 

あんなに間近でかぶりついていたのに歌い手が指揮を捉えるときに生じがちなほんの一瞬の「素」、それが全く見当たらなかった。 


それは、観ている者が 現実の世界に引き戻されてしまう瞬間が無い。ということを意味する。 


 なんということだ。彼らの目と呼吸は、各々の役としての真実をずっと、終始宿し続けていた。


 足枷の中で、これらのことを、この規模の大舞台でアンサンブルも含め、全出演者が全幕やり通す。 

それがどんなにどんなに高度なことなのか……

 想像しただけで泣けてくる。 


冒頭、激しく踊りながら 生声で歌って、客席中に響き渡らせるとかもそうだけどさ、ほんと、こんなことまでされたらもう、最強やんな。 

どんなミュージカル人も、大舞台俳優女優も敵わんやん。 

この日の公演を観て、オペラというものの固定概念を覆されたお客さんは多かったんじゃないかと思うなぁ…


まず、村松恒矢さん演じるユタと 渡辺康さん演じる才三のコントラスト。 

このコントラストが本当に見事だった。 

特に苦悩の表現は、ふたりの方向性が全く異なっていて 大物俳優顔負けだった。 

この物語の中ではこのコントラストが重要な軸だと思う。 

この軸がぼやけると、周囲がどんなに頑張っても、全てぼやけてしまう。 

ただの仕事仲間ではなく、竹馬の友、親友。かつ、才三の嫁さんであるミクリは ユタの妹。つまり、家族でもある。 

それなのにそれぞれ、相反し、ふたりとも追い詰められていく。 

その見せ方がそれぞれ明確でありながら、被らない。 

そして、ふたりとも、キャラクター作りにいっこもブレがない。 


これは今回のキャスト全員に言えることではあるけれども、え、この人いったいどんな人なん😰?と疑問に思わせたり、キャラがブレてしまうような、その場しのぎの取って付けた表現がない。 


髪の毛の1本、爪の先までその人物そのもの。 

目からさえ息が出てるんじゃないかと思うくらいの眼光、それがどんどん荒んでいくユタ。  


家族や友人と真実の狭間で葛藤しながらも『静』の中に揺ぎのない青い炎を秘めていく才三。 


ユタの、様々な想いが交錯し、変化していく様は歌も表情も実に見事だったし 

才三の内なる信念と心の叫びは、フォルテで力任せに叫び通された歌ではなく、静かさと強さの抑揚が、却ってより一層、強い魂の叫びとなり、 その悲痛さに胸を打たれた。 


演劇やドラマでも、始終泣きわめき、叫び通す演技が『迫真の演技』とか、『全身全霊』って絶賛されるけれど、実はそういう演技のほうが楽だということを知ってしまっているので、私はそれを『迫真の演技』とは呼ばない。 

好みの問題じゃん?と言われたらそうかもしれないけれど感情の爆発のさせ方が そういった単純明快なものとか、これ見よがしのものではなく、 

繊細で丁寧で、深く豊かな表現のこのふたりのユタと才三を見ることができて本当に良かった。 


このふたりのユタと才三がぶれない軸として在ったからこそ、私のこの作品の観方も定まったと思う。 


才三の最期を どう表現するのだろうと観る前から思い巡らせていたけれど、なるほど、そうきたか!と。 

大切に想う木と抱きしめあうかのように共に果てる表現はとても衝撃的で、切なかった。 


そして、相樂和子さんのミクリ。ユタの妹であり才三の妻。公演の1週間前、私はFbの記事でこう書いた。 


 「資料を読み重ねていくうちに、浮わついたドキドキワクワクはどんどんどんどん 胸に突き刺さり腹の底にズッシリとくるものに変わって流していた涎は違うものに変わった。」と。 

そのきっかけとなった登場人物がミクリだ。

 

夫婦の、愛と絆と日々の生活。 

それを守るために夫を山に行かせ木を伐らせる。 

しかし守っていくはずだったものは自分の思いとは裏腹に崩れ落ちる。 

夫の死によって…しかも自死という形で。 

そうさせたのは、自分。 

大木の下敷きで果てた夫。 

その遺体と対面するであろうミクリ。。。 

その遺体の惨さは、自分が夫にしてしまったことの鏡。 守っていくはずだった、かけがえのない、大切な大切なもの。それを、我が手で壊してしまう。 

もう二度と戻らない。 


戯曲台本を二周目した頃、その情景が目の前に浮かび上がり、涙が溢れた。

こんな凄絶な悲劇があるかと。 

そして物語に想いを廻らせ、はっとした。周囲を見渡せば 登場人物達それぞれが親友であり、兄弟であり、親子であり 夫婦であり家族であるという、深い繋がりの中にいるのだと。 

その中でおこる悲劇。 

 「人間の身勝手で自然を破壊することへの警鐘」という視点にばかりフォーカスしていたけれど 

そのベースにあるものがくっきりと浮き彫りになったとき、この物語の重さと深さと意味がのしかかってきて愕然としたのだった。 


それが私の腹の底でずっしりとした錘となった。 

これを…… 演劇ではなく、オペラで、しかも大人数の大舞台でやるのか…。  


そんな思いのきっかけとなったミクリだけれど、相樂さんのミクリは実に凄かった。 

才三を山に行かせるときの苦しみも、才三を喪ったあとのアリアもミクリの胸の中にあるものが身体中を伝って血骨までもがギリギリと音を立てながら全て絞り出されるような表現。その息づかいと音色。

なんという声と表現……! 

ピアノ、ピアニッシモが、もう、もう、凄まじく切なく、糸がピーンとはりつめたように静まり返った客席に響きわたる。とてつもない、とんでもないアリアだ……


鳥肌が立ち、涙がとまらない。 

そして、あの台詞。戯曲本を読みながら才三の最期とミクリの独白に涙している私に、追い討ちをかけ絶望に突き落とした台詞。 


 「いけない私、うちの人出るとき 雪の支度をしてあげるのを忘れた 」 


演者にとっても 聞く者にとってもこれ程残酷な台詞があるだろうか。 

言い方(歌い方)によっては、それまでの全て…才三の最期までもが台無しになってしまうこの台詞を、相樂さんのミクリは本物の生きたことばとして奏でていて 

ミクリの想いがすべてリアルに心につきささった。 


そしてそれは才三が温かく優しく悲痛に奏でた最期の言葉と一対となって私の心と共鳴し、私自身が壊れてしまいそうなほどだった。 


葛藤した末に選んだ道の先の過酷な現実に直面し 

後悔と自問の渦に溺れているところにとどめを刺され、精神を患ってしまうのが光介。 

精神が崩壊した役は、『それっぽい猿芝居』演技で済ませてしまうことになりかねない上、なまじそれで観客をうまく騙すことができたりするだけに、

そういう楽な演技に走らずに表現するのは難しい。

 

そんな役どころの独白を、喋りならまだしも、歌で表現するということがもう、想像の範疇を超えていたから、和下田大典さんがどんな光介に仕上げるのか想像できなかったしもはや敢えて想像しなかった。 

そしたら、和下田大典の光介は私が今までに見たことのない和下田大典だった。 


張りと厚みと深みのある、会場中に響き渡る歌声。

吐露が進むにつれてその呼吸の色が変化し、切迫感が増して強迫観念のそれに変わっていき 窮地に追い込まれていく。 

破綻寸前の虚ろな目に心が痛むもつかの間、 

まるで亡き父親が憑依したような声と表現で 父の言葉を己に呟き語る異常さ。 

同時に、照明さんの光介の捉え方が絶妙で 

彼の歪んだ表情に陰影が狂気を増長し、息をのむ独壇場だった。 

 

駐車場で田植えをしている光介のもとに集まってくる村中の人々、友人、そして家族…そのリアル感に更に驚愕した。 

奇行の光介をとり囲む人々の表情、歩き方、動作…手足の先まで行き届いた表現。 

その光景に鳥肌が立った。 

舞台を見ているのか現実にいるのか区別がつかなくなる感覚に襲われた。 


そして、その場面を思い返して改めて思う。 きっとそんな共演者の皆さんだったから、彼はあの光介ができたのだと。 


仲間、友人、家族…その「輪」。その繋がり、その根底。それを 絶え間なくしっかり表現し続けている共演者の皆さんだったから。 


  「 こいつら何、 え…!? 姉ちゃん!!」それは、まるで子供のような、困惑と不安と恐怖が入り雑じった悲痛な叫びだった。 


ユタの妻、かやは光介の姉でもある。 

長島由佳さんのかやは、美しく聡明で、弟への深い愛情を見せ続けていた。

壊れゆく弟を必死に守ろうとする姿がとても切なくて、だからこそ 光介の叫びはリアルな叫びとなり、姉弟の絆を想うと胸が掴まれる思いにかられた。 


病院から抜け出してきた光介の良き理解者となった信ちゃんこと信次。 

勝又康介さんの信次はほんとに良い奴だったなぁー!!光介にコートをかけるところも井戸掘りも、水を発見したときも。 

まだたぶん、薬物療法の後遺症とかでちゃんと正常にはなっていないであろう光介に寄り添うその一挙手一投足に、真の友情や愛が垣間見れて泣けた。 

信ちゃんがいてくれて良かったね、光介。って。 


決別してしまったユタと才三に対比してとういか… 木々が新しく芽吹くように 芽吹いていく友情に、明るい兆しを見た。 


泉良平さんの民吉は、老兵がポツリポツリ語る中に説得力があるような表現と、年老いてあまり自由のきかない身体が、どんどん進み行く時代の中で 取り残されていくさまを投影し、若者たちとの対比となって物語の中で強いメッセージを放つ。 

 自分の木を伐りに行く前の思い詰めた思案の表情と、『旅立ち』の前に皆の頭を撫でながら浮かべる慈しみと愛おしさの溢れた笑みがとても印象的で、その慈愛は、この物語を希望の光に繋ぐ象徴に見えた。 


話すことができないスカンポは井上華那さん。

溌剌とした表情が可愛かった。 

大人が子供の役を演るっていうだけでも難しい上に手話。 

手話は、覚えるだけでも大変だったろうなぁ… 

その手話を、完全に自分のものとしてそれを更にスカンポのものにする。そして更に、そこに豊かな感情をのせて表現する。 

違和感なく見ていたけれど、きっとスカンポを完成させるまで、相当努力されたに違いないと思うと、一層スカンポが可愛く、悲劇が続く物語の中で、その純心はまあるい光の玉のように煜いていた。 


そして、人々を見守り、威風堂々たる山田大智さんのカムイと、スカンポの亡き母、 絆の象徴のかつらは光岡暁恵さん。 

ふたりが奏でる、諭すような、それでいて包み込むようなことばは、くっきりと際立ち、私たちの胸に浸透ししっかりと刻まれる。 


そしてきわめつけは アンサンブルの皆さん。 

アンサンブルの皆さんの豊かで生きた表現と奏でることばによって ピエベツの村は より一層リアルに迫るものとなっていた。 

 

倉本聰氏の戯曲渡辺俊幸氏の作曲岩田達宗氏の演出この三つ巴は まさに神霊宿るが如く。 

そこに、倉本聰氏の信頼厚い吉田雄生氏の脚本。 

歌い手に寄り添う田中佑子氏の音楽。 

そして 物語と人物たちに寄り添う表現が見事な、森の木々、ダンサーの皆さん。 

東京フィルハーモニー交響楽団 の素晴らしい演奏。 

陰影の美しい照明。 


そんな、万全以上の、豪華な器の中。 

観賞用にきれいに無難に上手く収まるのではなく、 

その器を良い意味で超えて、自らが立体化し、 全身全霊で躍動し生きていた出演者たち。 


それは、衝撃の 圧巻のドラマだった。 


終演後、離れた席で観ていた、オペラ好きの友人が私の席に駆け寄ってきて興奮しながら言った。 


 「これがオペラなんですね!! そして、今日の舞台のアリアが本物のアリアなんだと思いました!!」

 と。 

 この舞台を観れて、本当に生きてて良かったと……。


いつもならここの、この演出が……😍 あそこの、あの演出が…💖と感想を真っ先に述べるところだけれど、 

そういう岩田さんの演出の中に無難におさまるのではなく、

それを全身で受け止め、何倍もの魂として放出し熱いドラマを見せてくれた出演者の皆さんの感想を書いていたら 異常に長くなってしまった😅😂 


推敲もせず 迸る想いを垂れ流しだけどこういうのも良いかな、って もう開き直り。

ほんとは、書き留めておきたいことがまだまだ、まだまだ山程あるんだけどね。 


#ニングル 

#日本オペラ協会 

#日本オペラ振興会

#倉本聰

#岩田達宗

#渡辺俊幸

#吉田雄生

#田中佑子

#村松恒矢 #渡辺康 #相樂和子 #和下田大典 #勝又康介

#長島由佳 #泉良平 #井上華那 #山田大智 #光岡暁恵

#東京フィルハーモニー交響楽団








素晴らしい公演でした。

下野マエストロと鹿児島交響楽団が織り成す音楽は
それはそれは濃密でドラマティックで美しく魂が宿り 
繊細に情景を映し出す照明の優美。

そこに登場人物ひとりひとりから発せられる呼吸とエネルギーと波長とが重なり、心が揺さぶられます。

例えば、
私がそれまで観てきた、蝶々さんの登場から結婚式の場面では

形式的且つ単一的で、ただ表面上で歌詞を連ねるだけの 唐突でサイボーグのような合唱だったり、
敢えて合唱をspookyにしたい演出なのかもしれないけれども 振り切れていなかったり
挿入された日本の音楽のすっとんきょうさが、日本文化を茶化してるかのように悪目立ちしていたり 
オケと登場人物たちが調和していないなど……

物語の世界に入れさせてくれない演出に興醒めしていたものです。

加えて、 Hou!  Cho-cho-san ! の合唱には何の呼吸も感じられず、ただの奇声で感情が全く伝わってこないことが多く、緊迫感のあるはずの場面が台無しでいつも可笑しくて笑ってしまうほど。

それらがこの度の舞台では  全く異なっていました。

蝶々さんをとりまく人々
合唱団の皆さんのひとりひとりに至るまで、個として、ちゃんと、そこに生きているのです。

その場にいるひとりひとりが、ちゃんと、在る。
その人々の人間模様と、一連のひと幕が鮮やかに描かれている。
(その中では神官の一場面がお客様の笑いを誘っていたりもし 😂 )
『その他大勢』が存在しない。

メインキャストのみならず、合唱団の皆さんのひとりひとりの 生き生きとした豊かな喜怒哀楽の表現、溢れ出す情緒豊な本当に素晴らしい音楽と照明。
全てがひとつになり 真に贅沢な空間でした。

だからこそ、
皆が蝶々さんを断絶するシーンが、切なく悲しく胸打つものになる。
意味のあるものになるのです。

くだんの、皆が蝶々さんを糺弾し立ち去る場面では、だだの『怒っている(風な) いわゆる 猿芝居』や全員一色の単調な怒りや謗りではなく
ひとりひとり様々な複雑な思いや感情が見てとれ、去る側と去られる側、両方の痛みが伝わり、とても切なく涙しました。

そして Hou! Cho-cho-san! の中に感じられる呼吸、歌声、そしてそれが遠退きこだまし、 残された蝶々さんの耳に心にまだ残っているかのような表現……本当に秀逸でした。


タイトルロールの髙橋絵理さんは いつもながら 歌唱、表情、目、身体…まさに全身全霊、
全て 内側から発せられる細やかな感情表現に圧巻です。
あの偽りのない眼差し。いったいどれほどのエネルギーを費やしてるのでしょう…

あどけなさの残る15歳の蝶々さんは本当に愛らしくて  思わず「可愛い……😍」と口から漏れてしまったほど。

それが、ピンカートンを待ちわび3年の月日が流れると 凛とした芯のある聡明な、目を見張るほどの美しい女性、蝶々夫人へと変化。

そしてクライマックス、絶望から 毅然と死へと歩む姿、歌声、その気高さに

うん、うん!!そう、そうだよね!! そういうことだよね! あなたは武家の娘なのだから……😭

と、私は涙しながら何度も大きく頷き…
そして
衝撃のラスト……

号泣でした。

この度の『蝶々夫人』は
演出の岩田さんの発案と構成のもと
一部、ブレーシャ公演のときに改訂されたものに
差し替えての特別版公演でした。

通常上演されている現行版は、その後のパリ公演のときに更に改訂されたものということで、
なるほど、それまで私が観てきたものは
全てパリ公演版だったわけです。

例えば、子供とシャープレスの前で
「芸者になんて戻りたくないわ!芸者に戻るくらいなら死ぬわ!死ぬわ!」と
易々と叫ぶという……
母親としてどうかしてると思うのと同時に、武家の娘が、それこそ誇りも威厳の欠片もなく そんなことを子供や人前でわめき散らす?!!
という違和感。
しかも大抵、半狂乱のように叫びまくって表現されていて、同情するどころか白けてしまうパリ版。

解説書や解釈書などを読むと、この歌を「死への覚悟」と書かれていることが多いのですが…

この歌こそ、蝶々夫人の人物像をおかしなことにしてしまった挙げ句、この物語をセンチメンタルなお涙頂戴の、チープなソープオペラ(昼ドラ)に成り下げてしまう改悪だと思うのです。

また、「子供の為に芸者に戻るくらいなら死んだほうがマシ」
と声高に叫んでおきながら
後々いくら愛しい坊やだのなんだのと言っても、鍍金。
子供への愛情も誇りも無く、あるのは自身を悲劇のヒロイン化して酔っている自己愛だけとしか感じることができず……
子供との別れに切なくなるどころか
「これは蝶々夫人の悲劇じゃなくて
こんな母親を持ったこの子供の悲劇よね」
という感想を抱かずにはいられない。

クリスチャンとなった彼女が  キリスト教の戒律に背き、自死する大義名分とは…………?

岩田さんが構成し演出された 特別版『蝶々夫人』は 
岩田さんの解釈と導きによって 、
そして、それを具現化してくれた皆さんによって、
私がずっと抱いていたそれらの歯痒さをすべて
取っ払ってくれました。

蝶は 「不死不滅」の象徴として、日本では長く、武士に好まれ家紋にも用いられています。

武家の出である彼女が、武家の人間としての誇りと魂を携え、我が子への愛と誇りを抱き
頑なまでに一筋の道を貫く姿にこそ、崇高なほどの悲劇があり、
武家の人間として自死を遂げるという『生きざま』に胸が掴まれ 苦しくなる。切なくなる。愛しいくなる。
そんな 武家魂、大和魂 の物語を観ることができて
ほんとうに幸せです。






と、いうわけでもないけれど
ずいぶんと 長い間
書くことから離れていた。

言葉が踊ってあふれて
流れだして海になる

そんな日々が
遠く遠くなってしまって

気づいたら
これはたぶん窒息気味

ちょっとずつリハビリだなー

そうそう

ロングバケーション。

最近観返してみた。

懐かしいというより
なんか、新鮮。

心がほんわかしたな。