1995年に、文春文庫で文庫化された(現在は絶版)、ノンフィクション作家である軍司貞則さんの著書「ナベプロ帝国の興亡」から、ザ・タイガースのマネージャーを務めた中井國二さんとザ・タイガースの関わりを書いた部分を抜粋しました。文中に出てくる“池田”さんは、プロデューサーを務めた池田道彦さんのことです。




グループ名は“ザ・タイガース”と決められた。
彼らは京都や大阪出身で、二十歳前の若者たちは、上京すると池田と中井に猛烈にしごかれた。
新宿「ACB」、池袋の「ドラム」といったジャズ喫茶を拠点に毎日昼、夜十回のステージをつとめさせられた。当時のワン・ステージは四十分と決まっていたが、その間中休みなく唄いまくり楽器を鳴らし続けなくてはならないのだ。体力が要った。楽器を運ぶだけでも大仕事だったが、休めるのはクルマの中だけであった。
ザ・タイガースと命名された若者たちは新宿と池袋を移動しながらそれを十回もこなした。
「一日に四百分というのは、殺人的スケジュールです。でもプロになるにはそのくらいやらなければダメだった。僕自身も大変だった。朝から夜遅くまでタイガースと一緒に行動し、彼らが千歳烏山にある合宿所へ帰ってから新宿へ出て池田さんと打ち合わせです。もちろん一杯やりながらですけどよくあんなことができたと思いますよ」と中井は言うが、当時、東京の音楽ファンは誰ひとり“タイガース”を知らなかった。
〔中略〕
晋と美佐の狙い通り“グループサウンズブーム”が爆発し、タイガースはまたたく間に頂点へ駆けのぼった。
実際のタイガースの生活は貴公子でも何でもなかった。中井が京王線・千歳烏山駅近くの学生協会へとびこんで見つけてきた一軒家に合宿していた。最初は渋谷周辺の不動産屋を当たったのだが、繁華街に一軒家などあるわけがなく、「郊外をさがせ」と不動産屋にアドバイスされて、偶然に見つけたものである。三部屋のひとつが居間兼食堂兼楽器置場、もうひとつが中井の荷物置場。残った一部屋に二段ベッドを三つ運び込んで五人のメンバーと中井が寝起きを共にした。




中井國ニさんは、2011年8月17日に亡くなられました。享年69歳。心から、ご冥福をお祈りいたします。