Creazy “Dzy” Night.


大和田 正春

第37代 日本ミドル級チャンピオン 角海老宝石ジム所属

1961年、東京都練馬区にて在日米軍兵士であったアメリカ人の父と日本人の母の間に生まれる。

頭髪はすべて剃り落とし、口の周りには髭を蓄え、混血であるがゆえに肌の色が褐色である為、まるでその風貌は1980年代当時、全階級を通して最強と称されていた“マーベラス”マービン・ハグラーに酷似していたことから「和製ハグラー」とも呼ばれていた。

オーソドックススタイルの強打者として知られていたが、ボクサーとして致命傷であるグラス・ジョー(極度に打たれ脆い顎)の持ち主であった為、対戦相手に敗れる時は豪快なKOでリングに沈められることがほとんどであった。
その一方、勝利する時もKOで勝利することが多く、いつしか、「勝つも負けるもKO決着」が彼が出場する試合の代名詞となり毎試合、毎試合、会場を沸かせていた。



俺が彼の存在を初めて知ったのは、遡ること27年前。


1984年の秋、俺が中学生の頃であった。
自宅の茶の間にて家族で夕飯を囲んでいた。茶の間に置かれたテレビにはスポーツ情報番組が映し出されていた。

その日に行われていたプロ野球やその他のスポーツの試合の結果等がひと通り紹介された後、いきなり、なんの前触れもなく大和田の特集が、そのスポーツ情報番組の中で始まった。

正確には覚えていないが「あしたのジョーのような…」といったタイトル名が付けられていたことは確かであった。

少年時代当時の俺といえば、虚弱で気も弱く、学校では同級生や上級生から「いじめ」や恐喝まがいの「たかり」を頻繁に受けていたせいか、心が卑屈になりかけていた時期であった。
しかし、その反面では「強くなりたい」、「自分を変えたい」と切実な願望から沸いてくるのか、「強さ」に対しての憧れや希望は人一倍以上に抱いていた。

その当時、日本人選手として初めてWBAとWBCの両機構が認定する世界ジュニア・バンタム級王座を獲得(統一)するという偉業を成し遂げた、“浪花のチャンピオン”こと渡辺二郎選手と幼少の頃からむさぼるように読み続けていた、おなじみのボクシング漫画「あしたのジョー」の主人公の矢吹丈と現実と劇画の世界を代表する二人の英雄に強い憧れを抱いていた。


そんな俺の耳にテレビの音声を通して入ってきた「あしたのジョーのような…」のタイトル名の一部分と5~10分程度の短い放映時間の一部分ではあるが、彼の特集の映像の模様は今でも俺の記憶に強く残っている。


俺の記憶の中での、その特集の内容を振り返ってみると。


いきなり大和田がアマチュア上がりの新鋭、野村勝英を一方的な連打で打ち倒すシーンから始まる。
次に、所属していた角海老宝石ジムでの練習風景。
昼は鍍金(メッキ)工場にて一作業員として従事する大和田の姿。
ジムから戻り、薄暗いアパートの自室にて、ひとり孤独を噛み締めながら生活する大和田の姿。
最後はオープニングとは対象的に、ヤング秀男や鹿野秀之といった大和田と同タイプの当時、強打者として定評が高かった選手達の強打によってリングに沈められるシーンで幕を閉じるといった刹那的な内容の特集であった。

特集を見終わり、大和田の風貌、醸し出す寡黙な雰囲気から受けた俺の大和田に対しての印象は、あきらかに劇画「あしたのジョー」の主人公、矢吹丈のギラギラとした野獣のようなイメージとはかなり掛け離れたものであったが、今ここで改めて当時の記憶を振り返りながら想えば…。

あしたのジョーのストーリーも後半に差し掛かり、地獄のような減量に苦しめられた末に、冷徹無比なキャラクターの韓国人王者、金龍飛を破り東洋バンタム級王者に就いた後、己の身体が少しずつながらも崩れ始めてきていることに気付き出した時に見せる、矢吹丈の濁光の眼差しの奥に見える一抹の切なさは、選手として晩年を迎えた頃の大和田の表情からも窺えるような気もする。


後に彼もグラス・ジョーとは別でダメージの蓄積によって発症するボクサーとして致命的な傷を負い、選手生命に終止符を打つことになる。



大和田正春の特集番組から4~5ヶ月が過ぎた頃。


俺の中での大和田の存在も薄くなりかけていた時、ニュースや地震、天災速報と同じ扱いで衝撃的なテロップが俺の眼に飛び込んできた。

「浪速のロッキー」の愛称で多くのファンから親しまれ、全国的に支持を得ていた人気ボクサーの名前に続いて、彼の、大和田の名前が…。


大和田のボクサー人生はおろか、日本のボクシング界全体をも揺るがすような衝撃的な事態が起きていた。


つづく