2011年の6月頃からだったと思います。
避難して、いわきに住居を借り、あたふたと荷物を運んだり、新しい環境に戸惑いながら、毎日があっという間に過ぎ、少し落ち着いた頃です。
気が張り詰めていたのが、少しずつ緩んできて、疲れが出始めたのかな?
両親や叔父との同居にストレスが溜まってきたのかな?
どうも食事の時、うまく飲み込めないというか、つかえるというか・・・
違和感を感じたのです。
なんかおかしい。
そういえば首に、こりこりしたものができてる。
ちょうど喉仏のような・・・
リンパでも腫れたのかなと、少し様子を見ました。
7月に耳鼻科で診察を受けたら、お医者様は触るなり「腫瘍だね」とあっさり。
「え~しゅ、しゅ、腫瘍???」
腫瘍=ガン・・・私の頭にはこれが・・・
「甲状腺の右側に3センチほどの腫瘍ができてるね。」
え~!!!何でだ??何で~?
めっちゃ被爆してたってこと???、早速甲状腺がんってか?
「ちょっと硬いし、細胞検査しましょう。」
結果は「3」・・・
悪性とも良性とも判断できないと・・・
1~2は良性、4~5は悪性なんだとか・・・
「3か~微妙だね。日を改めてもう一度検査しましょう。」
え~あの痛い細胞検査をまたか~・・・
ポジティブな私もさすがに超ネガティブになりました。
再検査も「3」
お医者様は「悪性の可能性もあるので、除去手術しますか?」
私の頭は少々パニック・・・
私は「少し考えさせてください」と答えるのがやっとでした。
夫に報告すると、看護師のいとこに相談しました。
まずはセカンドオピニオンをとアドバイスされました。
8月夫の勤務先からも近い表参道の伊藤病院で、診察を受けました。
そこでも細胞検査は「3」でした。
ただ、専門とだけあって、より詳しい説明が聞けました。
良性なら、腺腫様結節。悪性なら甲状腺の濾胞ガン。
ガンだとしても、甲状腺がんは比較的進行が遅く、生存率も高いと。
ただ、若ければ若いほど助かる確率が高く、45歳ぐらいを堺にというお話でした。
当時41歳の私は微妙なお年頃・・・
「先生できるだけ、早く手術してください。」と懇願しました。
「最短で半年後ですね。」
甲状腺疾患の大きな病院ですから、患者さんは全国から来ます。
午前中の受付だけで、500~600人くらいいるようです。
私の病気のことでは、家族みんなに心配をかけてしまいました。
良性だと信じたいけど、悪性だったら、最悪5年後とか10年後とか生きてるだろうかと・・・
私がいなくても子供達が困らないようにしなければ・・・
10月、娘の不登校で私は一層焦りました。
娘には、毎日食事の支度を手伝わせたり、洗濯物をたたませたり、トイレを掃除させたりと、家事を仕込みました。
思い患ってる場合じゃない。
今のうちにできる限りのことをしなければ。
このまま避難生活をいつまで続けるのか。
仮の生活ではなく、軸のある生活がしたい。
週末、夫と時間を見つけては不動産を訪ね、中古住宅や土地を物色。
私が死んでも夫が元気に働いてくれれば、子供達は生活はしていける。
ただし、通学や買い物に便利な場所じゃないと。
子供達が、少しでも自立した生活ができるように。
私がいなくても大丈夫なように。
なんてね。