BIG-ZAMの名付け親はS-WORDじゃなかったでしたっけ?っていう書き込みがあったけど...そーだったっけ?まぁそーかもね~。俺は俺だったと思ってたけどそーかも知れん。昔のことだかんねー。間違ってたらスマソ!まぁどっちでもいーじゃん(笑)。ほんじゃ始めますか。







八人になったNITROは八通りの思いを胸に秘めてアルバム制作を行なっていた。そして今まで何度も言っていることだが...俺達は成功するつもりはなかった。勝ち上がるつもりはなかった、と言い換えてもいい。俺達はただ自分達のような「どうしようもない街のBボーイ」の意地を見せたかっただけだった。俺達八人が巡り会った意味や今まで送って来たBボーイ人生を音源に刻み込みたかっただけなんだ。それが無駄じゃないって思いたかったんだな。


それにしても俺達は浮いていた。誰と比べても異色だった。立ち振る舞いから曲の作り方、言語感覚や韻に対するこだわりまで全てにおいて異質...っつーか「変」だった。俺個人的にはこんなに型のない自由なリリックが受け入れられるわけないと思っていた。シーンは「韻の固さ」という価値観を持ち始めていた頃だったからだ。BボーイパークのMCバトルが盛り上がり始めていたのも関係することだろう。


だから俺達は自分達を「イケてる」とは思ってなかった。たとえそう聞こえるリリックであっても実際そうなのだ。それどころか俺達は自分達を「落ちこぼれ」や「出来損ない」と位置づけていた。実際そうだったしね。社会にもシーンにも受け入れられない落伍者の集まりだったわけだ。だから俺達が音源を作る理由は「落ちこぼれの叫び」を世の中に撒き散らすことだったのだと思う。望まれていないならレイプするまで。俺達は拗ねてたし、無闇に怒れる若者だった。


だが様子がおかしかった。あろうことか徐々にではあるが俺達は望まれ始めていたのだ。ライブを重ねるごとにその思いは強まっていった。おかしな話だ。俺達はそれまで世に望まれてきたアクトたちとは決定的に何かが違うグループだった。なんとそれが奇蹟的に面白がられたのだ!客のレスポンスは日を追うごとに増していった。そのうち「次はNITRO!」というアナウンスで歓声が上がるようになり、ライブ一曲目の定番である「LIVE'99」から客はジャンプしてたほどだ。


次第に俺達は胸が熱くなっていくのを感じた。音源を作ることに新たな意味が加わり始めたのだ。どうやら...俺達は「望まれてる」のかも知れない!いやまさか。でも客の反応は尋常じゃなかった。彼らは熱狂していた。それが俺達をも熱狂させたのだ。その凄まじいエネルギーの交換が化学反応を起こし、会場はいつでも爆発しそうだった。そのテンションはいつか見た雷の「亜熱帯雨林」などのイベントの熱い空気感に限りなく近いものだった。


俺達の逆襲が始まった。「何者にもなれなかった若者」の鬱憤がマイクとスピーカーを通して客席を覆い尽くした。それは今思えば「若者の叫び」そのものだった。荒々しく、刺々しく、そして美しく矛盾していた。理由なき反抗。たとえ理由はあっても俺達はそれに気付いていなかった。ただ俺達は客を無茶苦茶にしたかった。その頃のライブではしょっちゅうダイブもしてたね~。ある時なんかはメンバー八人中の五、六人がダイブしてしまい、ステージ上に二人くらいしか残ってないときまであった。


次第に「NITROのライブは女子は行き辛い」という話まで出たほどだ。なぜなら男子が暴れすぎるしメンバーが空から降ってくるし、ハイヒールで観てるのは実際キツいというわけだ。だがそれすらもいい意味での街の噂となり、俺達のライブの盛り上がりは右上がりに高まる一方だった。そして12インチ「OTOGHEE BANASEE」がリリースされ、後はもうアルバムを待つだけという状況になった。運命の1stアルバム、「NITRO MICROPHONE UNDERGROUND」がもうそこまで来ていた...。







う~んドラマティック。俺は実はこの頃あまりNITROに時間を割きたくなかった。自身のソロに集中したかった時期だったのだ。実際俺はソロ名義での1stシングル「Mr.Fudatzkee」をリリースしてインディーデビューしていたし、この時期は2ndシングル「SUPADONDADA」を作っていた頃だ。俺はどういうわけかいつでもソロとNITROの制作が被ってしまう。その最初の試練が正にこの頃である。


俺はいつでもフラストレーションの塊だった。スタジオにもいつも不機嫌に参加してた気がする。でも身内間の「一区切り」としてNITROアルバムには参加したかった。ぶっちゃけソロには自信があったから「最初で最後」くらいのノリで心血を注いだわけだ。これがうまくいかなくても俺にはソロがある。そう思ってたのも事実である。


だが実際シーンは俺のインディーデビューよりNITROに沸いた!これは俺に取って完全に誤算だった。そしてこれはある意味嬉しい誤算でもあった。NITROはこの国のシーンの価値観を変えたわけだが、何よりも俺自身の価値観を変えてしまったのだ。いいラップ、悪いラップ、受けるラップ、受けないラップ。俺なりの耳で築いてきた価値観がガラガラと崩れ落ちていき、それは次第に再構築されていった。


「価値観を壊して作り直す」ことはパンクロックの思想であるが、ヒップホップにもそういった側面があることを俺は連れ添った身内から教えられた。それが NITROがロック畑にも受けた要因だと思われる。そしてNITROの名声が高まるにつれて徐々に俺はある目標を持つようになる。それは「打倒 NITRO」、それである。俺はソロアーティストとしてNITROに負けたくなかった。複雑な思いだが真実である。そしてそれは今も続く戦いである。


さぁ、次で最後だ。続く[其の十]を心して待て!ウララララララララ~!!(ジェロニモの雄叫び)