続き行きます!


前出のDJ VIBLAMは渋谷STILL DIGGIN'の店長であり、「SPECIAL FORCE」を始めとするニトロ音源の生みの親でもある。そしてHASSY THE WANTEDはTHE BROBUSのDJでありリーダーでもある。時折俺のライブDJもこなすイケてるBADBOYである。OUTER LIMITESはレゲエの店だったが二人はヒップホップのDJだった。だがレゲエも好きで回せた、つーかそーいうの当時は当たり前だった。HASSYはハウスまで回せたはずだ。VIBLAMは店で知り合ったがHASSYはもっと前に知人の紹介で知り合ってた。家に遊びに行ったりもしてた仲だったがいい感じに再会したってわけ。


そして店に通ううちに二人がDJやってるイベントに誘われた。今は亡き池袋の「CHOICE」というクラブでそのイベントは月一で行われていた。イベント名は「BLACK TALON」!そこへ通ううちに俺は自然とマイクを持たされるようになっていつもK-BOMBとずーっとフリースタイルしてた、毎月。ちょうどその頃FGナイトが同じCHOICEでやっていて、俺らは金曜日でFGは次の日の土曜日だったためライムスの面々もよくマイクを握りに来てくれたもんだ。俺らも次の日に逆に唄わせてもらったり。そんな時代だね~。


んで話がラガから逸れたようでまた戻るのだがそんなBLACK TALONにはしょっちゅうラガ人脈もマイクを持ちに来た。それがCRYSTALクルーであった。BUTCHER、REILI、ZARI、RAGA-G!BLACK TALONのボスのMr.YAZやタダシ君(R.I.P.)と仲が良かった彼らは結構頻繁に顔を出してくれてた。彼らが俺が最初にタイトになったラガだったと思う。そしてそのパワーをまざまざと見せつけられたもんだった...マイクの使い方、客の掴み方。この頃の日本ではマイクを使うのはレゲエ人のほうが圧倒的にうまかったと思う。


当時の日本の「フリースタイル」と言う言葉の意味は今と違って「クラブで突然始まるセッション」的な意味合いが強く、実際即興である必要は無かった。持ちネタを即興を混ぜつつやるラッパーがほとんどだった。レゲエで言う「ラバダブ」に近いノリだったってことだ。そしたらやっぱ当時はラガにはかなわなかったね、バイブスが違いすぎた!この頃のヒップホップ人の取り柄は歌詞世界だったと思う。韻を踏む歌詞はヒップホップの独壇場だった。そこは当時レゲエは弱かったと思う。CHAPPIE氏などはRIDDIM誌の連載でレゲエ人はそこがわかってねーと嘆いていた。


でもパフォームはラガの圧勝だった!CRYSTALに限らずBOY-KENちゃんに浪花男にCHAPPIE氏、みんなハンパじゃなかった。俺はだんだんとラガに魅せられてゆき、ズブズブとその魅力にハメられていった。


USのヒップホップもラガ風味なラップがすんげー流行ってた。SMIF'N WESSUNにDAS EFXにFU-SHUNICKENSとかその他諸々。SIGNETというUSのラガレーベルがSHAGGYを送り出したり、ジャメーカのラガDJ(ヒップホップで言うMC)のUSヒップホップREMIXも流行っててえらいかっこよかったもんだ。


そして日本ではペイジャーや雷とV.I.P.がタイトだったために俺さらには煽られた!マイアイドルのツイギーが夜行列車を発表した日にゃそりゃ俺もどーにかなるってもんよ。その後俺に次の転機が訪れる。ハヂメとハセベ君が金曜に西麻布でレギュラーイベントを始めたのだ。その箱が今は亡き「CHAOS」である。CHAOSと言ってわからない人も元「CLUB ZOA」と言えばどうだろう?そう、伝説のBLACK MONDAYが行われていた箱であった!俺はただならぬ運命を勝手に感じたものだ...そしてCHAOSは金曜以外完全なレゲエ箱であり、その店長のSUPER-BはOUTER LIMITESのサウンドであるMAD MAXのセレクターであった。俺の人生の点と線が繋がり始めた。


う~んここからが本番!まだ続けよーっと♪