ヒップホップとは、Bボーイとはなんぞや。
その宇宙のごとき壮大なテーマ。彼らはそれに向かわざるを得ないところにまで来てしまったのだろう。さんぴんCAMP以降もシーンの熱は収まる様子をまったく見せず、新規の顧客を巻き込んでむしろ右上がりをキープしていたほどだ。さんぴんに出演したアーティストたちはどこへ行ってももてはやされただろうし、前回「その四」で書いたようなヒップホップのラジオ番組たちがそれをさらに後押ししたように思う。その頃シーンの住人たちは多かれ少なかれ「ヒップホップはこの国に根付いた」という幻想(あえてそう言おう)を抱いただろう。映画「ワイルドスタイル」に寄り添ったさんぴんという伝説を俺たちは共有していたし、アナログレコードというメディアは少なくとも渋谷では完全にバブルを起こしていた。ミックステープで新曲をチェックするライフスタイルは完全に渋谷の若者に浸透していたし、海外の文化だと諦めていたラジオのミックスショーまでが俺たちの手の届く場所にあった。「もうニューヨークも渋谷も変わんないじゃん」と思う者がいても何らおかしいことではない状況だった。
だがライムスターはその熱狂の渦のド真ん中で疑問を抱いたのだと思う。これでいいのか?これが最終目標なのか?いや、違うことだけは間違いない、なぜならこれはブームなのだから、と。ブームを起こしたことはそれだけでも凄いことだ。だがブームはブームなのでいつかは去っていくことをキャリアを積んできた彼らは知っていただろう。それは「根付いた」のではない、「流行らせた」までのことなのだ。なんせ彼らはどん底から這い上がってきたアーティストである。これはライムスに限った話ではなく、彼らさんぴん世代のアーティストは日本語ラップになど誰も見向きもしないところから時代の寵児になるところまで辿り着いたのである。そしてどん底を知る者は思慮深い。彼らの目標はこの頃になっても「ヒップホップを根付かす」ことであっただろう。この国に、日本にだ。それをおのおのが違うやり口で模索し始めた時期。キングギドラはジブラ、Kダブがそれぞれソロとしてアルバムを発表していったし、雷でもツイギーとユウザロックがソロワークに傾倒していった。ソウルスクリームやシャカゾンビなどは自分たちのペースでアルバムを発表していき、MUROはK.O.D.P.というクルーを結成した後に徐々にDJとしての立ち位置にも比重をかけていった。デブラージはブッダブランドの音源制作を続けながらも自身によるエルドラドと呼ばれるクルーを結成し、ECDは名作「BIG YOUTH」を発表した後シーンから雲隠れした形を取りながらも音源制作をやめなかったようだ。
その中でライムスターは沈黙を続けていた。ライブ活動は途切れることなく続いたが音源制作に入るには至らず、他のさんぴん組とは違うスタンスを取っていたように思う。彼らは沸き上がる疑問と戦っていたのだろう。さんぴん以降の状況がブームならば、ブームではない確固たる何かをシーンに提示しなければならないと思ったのではなかったか。そこで今一度「ヒップホップとはなんぞや」という問いかけを自身に向けたのだろう。彼ら自身の中でヒップホップの定義を改めたかったに違いない。それが出来ぬうちはまだ一歩も動けない、そんな心境だったのではないだろうか。ここまで書けばわかるはずだろう、彼らはズバリ生真面目なのだ。俺がライムスターをリスペクトせずにいられないその理由とはその「誠実さ」である。ごまかさず、逃げず、彼らは抗うのだ。それを俺は18の頃からずっと見てきた。そしてそのころから彼らは言っていた、「人間の性(サガ)を表現していきたい」と。サガ。どうしようもない何か。それは彼らに取ってヒップホップへの愛であっただろうし、「考えてしまう」日本人であると言うことでもあっただろう。
ヒップホップは自己愛に満ちた音楽である。こんな俺だけどカッケーベ!といったある種の開き直り、そこに痛快さがある歌詞世界。ある意味これは自己肯定の音楽なのである。ニューヨークのゲトーの住人たちのメンタリティが世界に飛び火してヒップホップはでかくなっていった。それが正しかろうが正しくなかろうが、俺はこうだと言い切る強さ。そこにこの音楽の根源があるのだろう。つまり揺るぎない意志を持ってヒップホップは作られるべきなのだ。そこで彼らが戦ったのは自分たち自身であっただろうことは疑う余地もない。さっき彼らはどん底から這い上がってきたと言ったが、その正に「どん底」な時代に意地の悪い人間はよくこう言ったものだ。「なんで日本人がラップする必要あんの?」と。「あれは黒人の文化でしょ」と。これは高校生だった当時の俺自身も何度となくまわりに言われたことだった。屈辱だったが無理もない、なぜなら小さかった当時のシーンの外の人間たちには日本語でのラップの仕方さえ想像できなかっただろうから。そしてその意義もわからなかったに違いない。「ラップなんてノリ一発のものでしょ、それが出来るのはリズム感のいい黒人だからでしょ」などという今考えれば人種問題とも取られかねないような極論がまかり通り、それは同時に世間の大多数の意見だった。それを長い年月をかけて先人たちが一歩一歩わからせてきたのだ。「日本人だってラップしたい!」「日本人だってラップ出来る!」「日本人だってラップする意味と意義がある!」これは本当に今の若者には想像つかない心境なんじゃないだろうか。今の日本に「ヒップホップ」が根付いたのかはわからない、だが日本人がラップ出来ることは今の若者なら誰でも知っている当たり前のことなのだから。
その「当たり前」を作ったのがさんぴん世代とそれ以前のパイオニアたちなのだ。ヒップホップを生きることはこの国ではもともとリスキーなことであったのだ。金にもならない、女にもモテない、理解すらされない。だが彼らはマイクを置かなかった。ただただラップがしたかったのだ、狂おしいほどに。そこに見返りを持とうとしたなら続けられるわけがなかった。そんな時代があったのだ。そのことをシーンの住人たちは忘れてはいけない。そしてもちろんライムスターがそれを忘れるわけがなかった。その昔マイクロフォンペイジャーが提示したのはニューヨークのヒップホップのライフスタイルだった。その歌詞世界も向こうのシーンに影響を受けたものだったし、そこがクールでスタイリッシュな理由だったわけだ。だが一方ライムスは音楽性は確かにどこまでもヒップホップだったが、その歌詞世界はペイジャーとは対極にどこまでも泥臭い日本人独自の感性に満ちていた。彼らは東京をニューヨークに見立てて歌詞を書くことが出来なかった、なぜならそれは幻想であるからだ。USのヒップホップを聴きながらも俺たちは米と納豆を食うのだ。チキン&ワッフルではなく。欧米か!否、ここは日本である。つまり彼らは「アメリカ的である」ことを初めから諦めていたし、そこからでないとオリジナルな何かなど生まれるはずもないと思っていたのだろう。
では「アメリカ的」な美学を歌詞から排除し、日本人であることを肯定した上でどうヒップホップを説明するのか。それが彼らの命題であった。彼らは英語が話せる一部のラッパーとは違い、この国の大多数の日本人と同じく日本的であった。欧米人じゃない、ゲトー出身でもない、不良だったわけでもない。じゃあ何に惹かれた?ヒップホップの何が自分たちをここまで突き動かした?そこを提示したかったのだろう。そして彼らはそれが「メンタリティ」であることに行き着いた。アメリカのゲトーの住人たちがホワイトアメリカに対して持っていた劣等感がこの文化のパワーの源ならば、日本人が欧米人に対して持つ劣等感がパワーにならないわけがない。なんせ我々の国は敗戦国なのだ。だから陳腐な言葉だがやはりヒップホップは「勝ち上がり」や「下克上」を目指す文化なのだ。既存の価値観を、ゲームをひっくり返すこと。それを「何ものにも媚びず」成し遂げるために「己を磨く」こと。それこそがヒップホップがヒップホップ足る理由なのだとライムスは考えたのであろう。そしてその意思が固まり、音源として世に放たれたのは前作エゴトピアから三年以上が経過した98年だった。彼らはヒップホッパーのメンタリティを「Bボーイイズム」と呼び、それを曲名に掲げてついにシーンにカムバックしたのだ。前述のユウザロックによる「ヒップホップナイトフライト」の放送で俺は初めてその曲を聴き、ぶっ飛びまくって椅子から転げ落ちた。
98年はもうすでに「時代は変わる」で書いたようにUSのヒップホップの価値観が変わり始める頃である。既存のものとは全く違うヒップホップが台頭してきたのである。本国でさえそんな時期に、ライムスが送り込んだ「Bボーイイズム」のオケはなんと怒濤のオールドスクール仕様だったのだ!だがそれもそのはず、今ではヒップホッパー全般という意味で使われることも多い「Bボーイ」という単語はもともとブレイクダンサーを差す言葉であったのだ。そして古くからブレイクダンサーたちの定番であったジミーキャスターの曲がサンプリングされていた。それはヒップホップというUSの文化の始まりを彷彿させるトラックであり、同時にヒップホップがどこから来たのかを聴覚的に意識させる音像であった。そしてそこに乗る歌詞はヒップホッパーとしての根本の生き方の哲学であり、正にそのすべてがフレッシュ過ぎた!全ラインがパンチラインとしてヘッズの鼓膜に瞬時に焼き付き、この曲は瞬く間に「Bボーイの国歌」としてシーンに認知された。ここに来てついに彼らの呪いが解かれたように思う。肩の荷がおりただろう、重い重い荷が。ついに自らの手で生まれ育ったこの国にヒップホップという文化を、そのメンタリティを説明し切ったのだ。恐ろしくかっこよく、そしてあり得ないほどにキャッチーに。これは未来永劫色褪せることのない、世代を超えて受け継がれる文句無しのクラシックだ。俺が孫の代まで聴かせたい音源だ。これは彼らなりの選手宣誓に他ならない...。もちろんブレイクダンサーは狂喜しただろう、今でも同曲はBボーイバトルと呼ばれるブレイクダンサーのバトルで頻繁に使われるらしい。そしてそこからさらに歴史を掘り下げた者は日本では「黒人のもの」という大雑把すぎるくくりで見られていたヒップホップは実はプエルトリカンのBボーイたちにも支えられていたことを知っただろう。ちなみにサンプリングの元ネタとなるジミーキャスターの曲のタイトルは「IT'S JUST BEGAN」といった。「始まったばかり」?出来過ぎだろ!かっこよすぎるぜ先輩!
この後に傑作「リスペクト」をリリースし、一段落したライムスターはまた新たな旅立ちを迎える。次の彼らの課題は純粋に音楽として、言ってみれば邦楽としてヒップホップをこの国に認めさせる旅だった。だがそれはもうみんなの知ってることだらけだろう、俺がここで語るべきことでもない。実際俺もここからはベタ付きで彼らを見れてないのだ。理由は前にも書いたと思う。99年には俺はニトロでデビューしてしまうし、2001年にはソロデビューしてしまう。先輩たちの背中を見ているだけでいるわけにはいかなくなったのだ。むしろそれを超えなければ意味がないと思い、あえて見過ぎないようにしてきたつもりだ。ここまで五回に分けて長いこと書いてきたことを糧として俺は俺なりの冒険を始めることになったのだ。いつでも俺は彼らの背中を見てきた。もちろんそれはライムスだけではない、俺より上の世代すべてに当てはまる話であり、この目で見てきた全てがかけがえない宝だ。彼らがいなければ俺はここにいない...頭が上がらない、感謝するばかりだ。そして俺にとってやはりライムスの存在は特別だった。ラップ稼業を始めて見るとわかるのだ、彼らの苦悩が。そして...おこがましいが俺は彼らと似ているな、と思ったのも事実だ。彼らと同じく俺は「意地っ張り」で音楽に対して「生真面目」で、そしてどこまでも「考えてしまう日本人」だった。しかし誰でもそうなのかもしれない、ライムスはいつだって究極に日本人的だったからだ。今これを読んでる未来のラップスターの君にも当てはまる話なのだ。だからこそ「耳を貸すべき」!つーか俺の先輩をなめんじゃねー、ハンパじゃねーぞって話さ。それが言いてーだけなんだな俺は。
さあ、長く続けてきたがそろそろシメに入ろうと思う。俺がこれを書くに至ったきっかけは一本のライブDVD、「KING OF STAGE VOL.7 メイドインジャパン at 日本武道館」である。俺はその場に実際いたし、長いライブの間に計五回は泣いた...こっそりとな。そしてDVDとなってほぼ一年ぶりにそのライブを目の当たりにし、この感動、俺から見た俺にしかわからない感慨を文面で伝えたくなったのだ。ここに書いてきたようないろいろなことがそれこそ走馬灯のように俺のアタマを駆け巡ったよ。溢れてくる、押さえきれない、だから泣いたし、書いた。これはヒップホップと言う名の愛であり、ギフトなのだ。俺はまだまだあの人たちに勝てねーよ。追いついたように見えるかもしれないがまだまだ追い越せない。足元にも及ばねーや、あの懐のでかさは並じゃねーよ。リスペクトとしか言えねー。だからいつの日か俺が武道館をいっぱいにする時には特等席で彼らに見てて欲しい。見ててみなよ先輩、俺絶対泣くから!笑わないでくれよ、俺はあなたたちを見て育ったんだから。そして同時にこのライムス編ブログに名前が登場したすべての先輩たちに同様に感謝したい。いい経験をありがとう。あなたたちは俺の青春であり、俺のスターだ。無駄にするわけにはいかないから俺も励む。俺はあなたたちの子供なんだ、そんじょそこらじゃ終われねーって。そして親を超えるのは一番の親孝行だろ?へへへ、なんてね...生意気言ってすんません。でもホントのことさ、俺だってやってやらあ!だから言いたい、ありがとうヒップホップ、ありがとうライムスター、ありがとう日本語ラップ。なんにも持ってなかった俺に生き方を教えてくれた。暗い夜道に光を差してくれた。その時からこれが俺の生きる道だ、だから死ぬ時もヒップホップでいるぜ。つーか死んでからもな、なんせ俺は伝説になる予定なんだ。その時まで俺もごまかさず、逃げず、抗うだけ。ただひたすらに...な。約束するぜ。
つーわけで、AND YOU DON'T STOP!
御清聴ホントにありがとう。
その宇宙のごとき壮大なテーマ。彼らはそれに向かわざるを得ないところにまで来てしまったのだろう。さんぴんCAMP以降もシーンの熱は収まる様子をまったく見せず、新規の顧客を巻き込んでむしろ右上がりをキープしていたほどだ。さんぴんに出演したアーティストたちはどこへ行ってももてはやされただろうし、前回「その四」で書いたようなヒップホップのラジオ番組たちがそれをさらに後押ししたように思う。その頃シーンの住人たちは多かれ少なかれ「ヒップホップはこの国に根付いた」という幻想(あえてそう言おう)を抱いただろう。映画「ワイルドスタイル」に寄り添ったさんぴんという伝説を俺たちは共有していたし、アナログレコードというメディアは少なくとも渋谷では完全にバブルを起こしていた。ミックステープで新曲をチェックするライフスタイルは完全に渋谷の若者に浸透していたし、海外の文化だと諦めていたラジオのミックスショーまでが俺たちの手の届く場所にあった。「もうニューヨークも渋谷も変わんないじゃん」と思う者がいても何らおかしいことではない状況だった。
だがライムスターはその熱狂の渦のド真ん中で疑問を抱いたのだと思う。これでいいのか?これが最終目標なのか?いや、違うことだけは間違いない、なぜならこれはブームなのだから、と。ブームを起こしたことはそれだけでも凄いことだ。だがブームはブームなのでいつかは去っていくことをキャリアを積んできた彼らは知っていただろう。それは「根付いた」のではない、「流行らせた」までのことなのだ。なんせ彼らはどん底から這い上がってきたアーティストである。これはライムスに限った話ではなく、彼らさんぴん世代のアーティストは日本語ラップになど誰も見向きもしないところから時代の寵児になるところまで辿り着いたのである。そしてどん底を知る者は思慮深い。彼らの目標はこの頃になっても「ヒップホップを根付かす」ことであっただろう。この国に、日本にだ。それをおのおのが違うやり口で模索し始めた時期。キングギドラはジブラ、Kダブがそれぞれソロとしてアルバムを発表していったし、雷でもツイギーとユウザロックがソロワークに傾倒していった。ソウルスクリームやシャカゾンビなどは自分たちのペースでアルバムを発表していき、MUROはK.O.D.P.というクルーを結成した後に徐々にDJとしての立ち位置にも比重をかけていった。デブラージはブッダブランドの音源制作を続けながらも自身によるエルドラドと呼ばれるクルーを結成し、ECDは名作「BIG YOUTH」を発表した後シーンから雲隠れした形を取りながらも音源制作をやめなかったようだ。
その中でライムスターは沈黙を続けていた。ライブ活動は途切れることなく続いたが音源制作に入るには至らず、他のさんぴん組とは違うスタンスを取っていたように思う。彼らは沸き上がる疑問と戦っていたのだろう。さんぴん以降の状況がブームならば、ブームではない確固たる何かをシーンに提示しなければならないと思ったのではなかったか。そこで今一度「ヒップホップとはなんぞや」という問いかけを自身に向けたのだろう。彼ら自身の中でヒップホップの定義を改めたかったに違いない。それが出来ぬうちはまだ一歩も動けない、そんな心境だったのではないだろうか。ここまで書けばわかるはずだろう、彼らはズバリ生真面目なのだ。俺がライムスターをリスペクトせずにいられないその理由とはその「誠実さ」である。ごまかさず、逃げず、彼らは抗うのだ。それを俺は18の頃からずっと見てきた。そしてそのころから彼らは言っていた、「人間の性(サガ)を表現していきたい」と。サガ。どうしようもない何か。それは彼らに取ってヒップホップへの愛であっただろうし、「考えてしまう」日本人であると言うことでもあっただろう。
ヒップホップは自己愛に満ちた音楽である。こんな俺だけどカッケーベ!といったある種の開き直り、そこに痛快さがある歌詞世界。ある意味これは自己肯定の音楽なのである。ニューヨークのゲトーの住人たちのメンタリティが世界に飛び火してヒップホップはでかくなっていった。それが正しかろうが正しくなかろうが、俺はこうだと言い切る強さ。そこにこの音楽の根源があるのだろう。つまり揺るぎない意志を持ってヒップホップは作られるべきなのだ。そこで彼らが戦ったのは自分たち自身であっただろうことは疑う余地もない。さっき彼らはどん底から這い上がってきたと言ったが、その正に「どん底」な時代に意地の悪い人間はよくこう言ったものだ。「なんで日本人がラップする必要あんの?」と。「あれは黒人の文化でしょ」と。これは高校生だった当時の俺自身も何度となくまわりに言われたことだった。屈辱だったが無理もない、なぜなら小さかった当時のシーンの外の人間たちには日本語でのラップの仕方さえ想像できなかっただろうから。そしてその意義もわからなかったに違いない。「ラップなんてノリ一発のものでしょ、それが出来るのはリズム感のいい黒人だからでしょ」などという今考えれば人種問題とも取られかねないような極論がまかり通り、それは同時に世間の大多数の意見だった。それを長い年月をかけて先人たちが一歩一歩わからせてきたのだ。「日本人だってラップしたい!」「日本人だってラップ出来る!」「日本人だってラップする意味と意義がある!」これは本当に今の若者には想像つかない心境なんじゃないだろうか。今の日本に「ヒップホップ」が根付いたのかはわからない、だが日本人がラップ出来ることは今の若者なら誰でも知っている当たり前のことなのだから。
その「当たり前」を作ったのがさんぴん世代とそれ以前のパイオニアたちなのだ。ヒップホップを生きることはこの国ではもともとリスキーなことであったのだ。金にもならない、女にもモテない、理解すらされない。だが彼らはマイクを置かなかった。ただただラップがしたかったのだ、狂おしいほどに。そこに見返りを持とうとしたなら続けられるわけがなかった。そんな時代があったのだ。そのことをシーンの住人たちは忘れてはいけない。そしてもちろんライムスターがそれを忘れるわけがなかった。その昔マイクロフォンペイジャーが提示したのはニューヨークのヒップホップのライフスタイルだった。その歌詞世界も向こうのシーンに影響を受けたものだったし、そこがクールでスタイリッシュな理由だったわけだ。だが一方ライムスは音楽性は確かにどこまでもヒップホップだったが、その歌詞世界はペイジャーとは対極にどこまでも泥臭い日本人独自の感性に満ちていた。彼らは東京をニューヨークに見立てて歌詞を書くことが出来なかった、なぜならそれは幻想であるからだ。USのヒップホップを聴きながらも俺たちは米と納豆を食うのだ。チキン&ワッフルではなく。欧米か!否、ここは日本である。つまり彼らは「アメリカ的である」ことを初めから諦めていたし、そこからでないとオリジナルな何かなど生まれるはずもないと思っていたのだろう。
では「アメリカ的」な美学を歌詞から排除し、日本人であることを肯定した上でどうヒップホップを説明するのか。それが彼らの命題であった。彼らは英語が話せる一部のラッパーとは違い、この国の大多数の日本人と同じく日本的であった。欧米人じゃない、ゲトー出身でもない、不良だったわけでもない。じゃあ何に惹かれた?ヒップホップの何が自分たちをここまで突き動かした?そこを提示したかったのだろう。そして彼らはそれが「メンタリティ」であることに行き着いた。アメリカのゲトーの住人たちがホワイトアメリカに対して持っていた劣等感がこの文化のパワーの源ならば、日本人が欧米人に対して持つ劣等感がパワーにならないわけがない。なんせ我々の国は敗戦国なのだ。だから陳腐な言葉だがやはりヒップホップは「勝ち上がり」や「下克上」を目指す文化なのだ。既存の価値観を、ゲームをひっくり返すこと。それを「何ものにも媚びず」成し遂げるために「己を磨く」こと。それこそがヒップホップがヒップホップ足る理由なのだとライムスは考えたのであろう。そしてその意思が固まり、音源として世に放たれたのは前作エゴトピアから三年以上が経過した98年だった。彼らはヒップホッパーのメンタリティを「Bボーイイズム」と呼び、それを曲名に掲げてついにシーンにカムバックしたのだ。前述のユウザロックによる「ヒップホップナイトフライト」の放送で俺は初めてその曲を聴き、ぶっ飛びまくって椅子から転げ落ちた。
98年はもうすでに「時代は変わる」で書いたようにUSのヒップホップの価値観が変わり始める頃である。既存のものとは全く違うヒップホップが台頭してきたのである。本国でさえそんな時期に、ライムスが送り込んだ「Bボーイイズム」のオケはなんと怒濤のオールドスクール仕様だったのだ!だがそれもそのはず、今ではヒップホッパー全般という意味で使われることも多い「Bボーイ」という単語はもともとブレイクダンサーを差す言葉であったのだ。そして古くからブレイクダンサーたちの定番であったジミーキャスターの曲がサンプリングされていた。それはヒップホップというUSの文化の始まりを彷彿させるトラックであり、同時にヒップホップがどこから来たのかを聴覚的に意識させる音像であった。そしてそこに乗る歌詞はヒップホッパーとしての根本の生き方の哲学であり、正にそのすべてがフレッシュ過ぎた!全ラインがパンチラインとしてヘッズの鼓膜に瞬時に焼き付き、この曲は瞬く間に「Bボーイの国歌」としてシーンに認知された。ここに来てついに彼らの呪いが解かれたように思う。肩の荷がおりただろう、重い重い荷が。ついに自らの手で生まれ育ったこの国にヒップホップという文化を、そのメンタリティを説明し切ったのだ。恐ろしくかっこよく、そしてあり得ないほどにキャッチーに。これは未来永劫色褪せることのない、世代を超えて受け継がれる文句無しのクラシックだ。俺が孫の代まで聴かせたい音源だ。これは彼らなりの選手宣誓に他ならない...。もちろんブレイクダンサーは狂喜しただろう、今でも同曲はBボーイバトルと呼ばれるブレイクダンサーのバトルで頻繁に使われるらしい。そしてそこからさらに歴史を掘り下げた者は日本では「黒人のもの」という大雑把すぎるくくりで見られていたヒップホップは実はプエルトリカンのBボーイたちにも支えられていたことを知っただろう。ちなみにサンプリングの元ネタとなるジミーキャスターの曲のタイトルは「IT'S JUST BEGAN」といった。「始まったばかり」?出来過ぎだろ!かっこよすぎるぜ先輩!
この後に傑作「リスペクト」をリリースし、一段落したライムスターはまた新たな旅立ちを迎える。次の彼らの課題は純粋に音楽として、言ってみれば邦楽としてヒップホップをこの国に認めさせる旅だった。だがそれはもうみんなの知ってることだらけだろう、俺がここで語るべきことでもない。実際俺もここからはベタ付きで彼らを見れてないのだ。理由は前にも書いたと思う。99年には俺はニトロでデビューしてしまうし、2001年にはソロデビューしてしまう。先輩たちの背中を見ているだけでいるわけにはいかなくなったのだ。むしろそれを超えなければ意味がないと思い、あえて見過ぎないようにしてきたつもりだ。ここまで五回に分けて長いこと書いてきたことを糧として俺は俺なりの冒険を始めることになったのだ。いつでも俺は彼らの背中を見てきた。もちろんそれはライムスだけではない、俺より上の世代すべてに当てはまる話であり、この目で見てきた全てがかけがえない宝だ。彼らがいなければ俺はここにいない...頭が上がらない、感謝するばかりだ。そして俺にとってやはりライムスの存在は特別だった。ラップ稼業を始めて見るとわかるのだ、彼らの苦悩が。そして...おこがましいが俺は彼らと似ているな、と思ったのも事実だ。彼らと同じく俺は「意地っ張り」で音楽に対して「生真面目」で、そしてどこまでも「考えてしまう日本人」だった。しかし誰でもそうなのかもしれない、ライムスはいつだって究極に日本人的だったからだ。今これを読んでる未来のラップスターの君にも当てはまる話なのだ。だからこそ「耳を貸すべき」!つーか俺の先輩をなめんじゃねー、ハンパじゃねーぞって話さ。それが言いてーだけなんだな俺は。
さあ、長く続けてきたがそろそろシメに入ろうと思う。俺がこれを書くに至ったきっかけは一本のライブDVD、「KING OF STAGE VOL.7 メイドインジャパン at 日本武道館」である。俺はその場に実際いたし、長いライブの間に計五回は泣いた...こっそりとな。そしてDVDとなってほぼ一年ぶりにそのライブを目の当たりにし、この感動、俺から見た俺にしかわからない感慨を文面で伝えたくなったのだ。ここに書いてきたようないろいろなことがそれこそ走馬灯のように俺のアタマを駆け巡ったよ。溢れてくる、押さえきれない、だから泣いたし、書いた。これはヒップホップと言う名の愛であり、ギフトなのだ。俺はまだまだあの人たちに勝てねーよ。追いついたように見えるかもしれないがまだまだ追い越せない。足元にも及ばねーや、あの懐のでかさは並じゃねーよ。リスペクトとしか言えねー。だからいつの日か俺が武道館をいっぱいにする時には特等席で彼らに見てて欲しい。見ててみなよ先輩、俺絶対泣くから!笑わないでくれよ、俺はあなたたちを見て育ったんだから。そして同時にこのライムス編ブログに名前が登場したすべての先輩たちに同様に感謝したい。いい経験をありがとう。あなたたちは俺の青春であり、俺のスターだ。無駄にするわけにはいかないから俺も励む。俺はあなたたちの子供なんだ、そんじょそこらじゃ終われねーって。そして親を超えるのは一番の親孝行だろ?へへへ、なんてね...生意気言ってすんません。でもホントのことさ、俺だってやってやらあ!だから言いたい、ありがとうヒップホップ、ありがとうライムスター、ありがとう日本語ラップ。なんにも持ってなかった俺に生き方を教えてくれた。暗い夜道に光を差してくれた。その時からこれが俺の生きる道だ、だから死ぬ時もヒップホップでいるぜ。つーか死んでからもな、なんせ俺は伝説になる予定なんだ。その時まで俺もごまかさず、逃げず、抗うだけ。ただひたすらに...な。約束するぜ。
つーわけで、AND YOU DON'T STOP!
御清聴ホントにありがとう。