脳出血について | くも膜下出血と脳動脈瘤の体験記

くも膜下出血と脳動脈瘤の体験記

36歳でくも膜下出血と脳動脈瘤を体験した記録です。
発症時の様子、手術時の実況中継、術後の経過、術後仕事の様子、かかるお金のこと、脳卒中全般の簡単な知識、三途の川を渡った後の世界観まで…全て包み隠さずお伝えします(笑)

前回に引き続き、今日は脳卒中(脳梗塞・脳出血・くも膜下出血)の中の「脳出血」のお話しです。


今から8年前のことですが
私の先輩を、この「脳出血」で亡くしています。

その当時私は、とある商品を売りこむ販促のお仕事をしていました。
(ちなみにそのあとは、健康保険関係のお仕事をしています。で、そのあとは福祉関係のお仕事に・・。転職だらけ?の人生だ・・・)

その先輩は確か当時45歳前後だったはず。
お酒が大好きで毎朝お酒のにおいをぷんぷんさせながら出勤していました。
「昨日飲みすぎちゃったなぁ」といっては薬を飲みます。

「なんの薬飲んでるんですか~?」
と聞くと、
「高血圧っていわれてて、その薬飲まされてるんだよね~」
とのこと。

とっても優しくて周囲を気遣い、ピンチのときには助けの手を差し伸べてくれる、とても頼もしい素敵な先輩でした。

冬の初めごろ、
「俺、数か月前からずっと頭痛いんだよなー」
といって頭をさすります。
「えー、絶対病院いったほうがいいですよー。心配だからいってくださいよー」
と周囲に進められるも、
「うーん、そうだなー」といって一向にいく気配がありません。

そして1月。
横浜のとあるデパートに販促にいくイベントがあり…。
数日前から先に会場入りしていた先輩に遅れること数日、私が新幹線の中から先輩にメールをします。

「11時30分頃現地入りできそうですのでよろしくお願いします!」
「了解、気を付けて!」

会場につくと、街頭イベントをしているはずの先輩がいない。
上司に尋ねると、調子が悪くて控室にいるとのこと。
心配になり、街頭イベントが終了してすぐさま控室に戻ろうとしたとき、まさに救急車がかけつけ先輩を搬送していきました。

病名は「脳幹出血」。
脳幹という生命の維持装置がいっぱい詰まった箇所が出血し、意識不明の重体で、予後は極めて不良とのこと。
イベントと並行で上司と同僚が病院に付き添います。
あの時ほど祈って祈って祈り倒したことはありませんでした。
なんとか目を開けてほしい、息を吹き返してほしい。
まだまだ若い、死ぬのには早すぎる。

家族に連絡をとり、新幹線で3時間かけて駆けつけていただきました。
最後に奥様と電話連絡したのは2日前の朝。
短く近況を報告してそれが最後の電話となったとのこと。
結局1週間近く、意識不明の状態が続きました。

私たちのイベントはなんとか終了し、
最後地元に引き上げようとするとき、病室を見舞いました。
そこには管やらモニターやらたくさんつながれて意識のない先輩の姿が・・。
ただただ、祈るばかりでした。

それから数日後の朝、職場に連絡が入り
だめだったとのこと。
しばらく声を失いました。

御遺体を神奈川からこちらの地元に8時間かけて搬送し、火葬を済ませ、ご家族に話しを聞くと、本当に、この仕事が好きで好きで、自分の体のことよりも、人のこと心配するような人だった・・・と。

本当に、失うことが残念でたまらなかった人でした。
体を壊してまでやる仕事なんてあるんだろうか・・・。
まだまだご指導いただきたいことがたくさんあったのに。
あの先輩の優しい気配り心配りの在り方を一生忘れません。
今度久々にお墓参りに行こうと思っています。

ところで、こうやって思い出してみると、
やっぱり発症前に「頭痛がする」っていっているんですよね・・・。
私もここ1か月、後頭部の鈍痛が治りません。
うーむ…。

何年かして、
後輩の誰かが書くブログに
「先輩を数年前にくも膜下出血で・・・」
と書かれないようにしなくっちゃ・・・(-_-;)‼