“アジア、すでに敵に向かい、蜂起せり 己を捨てて全力を尽くす
連合国を粉砕せんと 玉散ることもいとわず
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
古きアジア 不幸に苦しむ 烈しき圧制に 幾世紀も忍ぶ
大日本 雄々しく立てり アジアを救い 我らを守る
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ…”
インドネシアは360年間、オランダの植民地でした。
しかし、大東亜戦争で日本がたった9日間の戦闘でオランダ軍をインドネシアから追い出しました
「日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。第一に、オランダ語と英語が禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は驚異的発展をとげた。第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。第三に、職場からオランダ人がすべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい責任を要求する、重要な仕事をまかせた。…」
インドネシアの中学3年用の歴史教科書
だが、日本が連合国に敗れたとたん、またもやイギリス軍とオランダ軍がインドネシアを再占領するため戻ってきたのです。
しかし、インドネシアの国民は、今度は自分達の力で独立を目指そうと立ち上がったのです。
そしてスカルノとハッタは連合軍が来る前に、多くの民衆の見守るなか、独立宣言文を読み上げたのでした。
私たちインドネシア民は、インドネシア国家としての独立を宣言する。
権限の移譲などについては、早急なる手段で詳細に渡り行われる。
Jakarta *05年8月17日
*05年は日本の皇紀
インドネシア独立戦争は連合国を相手に4年間も続き、死者80万人という犠牲を払いました。
その中には、多くの日本人が現地に残りインドネシアの独立のために命を落としました。
命を捧げた日本兵はインドネシア独立の英雄として、ジャカルタ郊外のカリバタにある国立英雄墓地に丁重に祀られています。
ようやく四年間の戦争の末、各国の非難の中、オランダは渋渋インドネシアの独立を認めました。
しかしオランダの要求した独立の条件とは
1.60億ドルを支払うこと
2.オランダ人が所有してきた農場などの土地財産の権利を保全すること
3.スマトラ油田の開発費を弁済すること
などです。
もちろん、植民地支配の償いや謝罪は一切ありませんでした。
しかし、インドネシアは独立の代金を一部日本に肩代わりしてもらって条件に応じました。
こうして、インドネシアの独立が認められました。
後に日本との戦後処理交渉に当たったアルジ=カルタウイナタ氏はこう言いました。
「独立のお祝いというつもりで賠償金をください。日本が悪いことをしたから賠償しろというのではありません。」
ハッタ副大統領も、
後にこの話は、インドネシア軍全面協力の下、映画となりました。
ムルデカ・17805(2001年) ← 動画へ飛びます
植民地支配を受けてた国は、どうやって独立を果たすのか?
まずは、独立を認めてもらうこと。
これは、平和的なこともあれば、戦争に発展することもあります。
アジア諸国に進出した日本は、その時のために、国家の運営と軍隊のあり方を、徹底的に教え込みました。
短期間に達成するため、相当厳しかったようです。
そのために、逆恨みを受けることもあったようです。
次に、植民期間中のインフラ代を払う。
そうです。
支配してた側ではなく、独立する側が払う。
これが世界の常識でした。
戦争で負けたので、代金は貰えないかもしれないけど、日本が払う必要性は、全くないのです。
下朝鮮では、日韓基本条約破棄の話も出てるようですけど、良いと思いますよ。
払った金を返してもらって、あとは払わなくても良い。
そう言う話が、堂々とできますからね。
今あちらでは、日本と仲良くした方が良いのでは無いかという世論が高まってるそうです。
支那・上朝鮮との関係が、きな臭くなってきましたからね。
それと、財政の問題。
アベノミクスの影響もあって、またまた逼迫しているようですwww
・・・・・
関わり合いになりたくない。
クネクネ大統領には、是非、今の強硬路線を維持してもらいたい物です。
では 天皇弥栄 (*^ー゚)/~~
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