はい! 歴史大好きの奈央です。
昨日のブログで、「空白の4世紀」の状況について、朝鮮側からの観点を主として研究した例をご紹介しました。
その中で、倭国は3世紀後半、崇神天皇と思われる時代に、国内がまとまり(中央集権化)、それから4世紀にかけて、統制された軍隊を新羅に送り込むことができるようになったこと、新羅、百済に対しては優勢で、高句麗とは対等、もしくは劣勢の位置にあったことなどが述べられていました。
さて、中国の歴史書に戻ると、倭のことが再び現れるのは5世紀になってのことです。
「宋書」や「梁書」にそのことが記載されています。
ここでは、「宋書」の内容をご紹介します。
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倭の五王について
「倭の五王」と中国とが行った対外交渉は、中国への朝貢という関係で行われていました。
「倭の五王」は、自らへり下って中国に遣使することでその地位の承認を得たのでした。
それ以前、「漢委奴国王」や「倭国王帥升」といった弥生時代の北部九州の王や、その後に邪馬台国連合を統治した倭の女王「卑弥呼」などもこのような朝貢外交を実施していました。
中国史料『宋書』にその名が伝えられた5世紀の5人の倭国王とは、讃 (さん)・珍 (ちん)・済 (せい)・興 (こう)・武 (ぶ)と記されています。
大河歴史好きブログHPよりお借りしました。
中国 宋王朝との交渉は、421年(永初2)、倭の王 讃の遣使に始まります。
438年(元嘉15) 倭王珍は倭国と百済を含めた南朝鮮諸国の軍事的支配権と倭国内部の正統王権の承認を求めました。
しかし、宋が許可したのは安東将軍・倭国王の称号のみでした。
443年(元嘉20) 倭王済が遣使すると、宋朝は前例に倣い、済をまた安東将軍・倭国王に任じた。
451年(元嘉28) 済はこの後、「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号され、軍号も「安東大将軍」に進められた。
462年(大明6) 済の死後、その世子の興が王位につき、遣使すると、宋はまたこれを安東将軍・倭国王に任命した。
478年(昇明2) 興の弟の武は「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」に任命された。
479年(建元1) 武は南斉から鎮東大将軍に進められた。
502年(天監1) 武は梁 から征東大将軍に進められた。
5世紀の倭国王の対中交渉は武の遣使を最後にして史上から姿を消します。
最後の倭王武の上表文は、大和政権が日本を統一した過程を示すものとして重要とされています。
宋書倭国伝
興死して弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。順帝の昇明二年使を遣はして表をたてまつる。曰く、「封国は偏遠にして、藩を外になす。昔より祖禰(でい)躬ら甲冑を擐(つらぬ)き山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国(中略)」と。
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昨日のブログに書いたように、倭国は3世紀後半、国内がまとまり(中央集権化)、統制された軍隊を半島に送り込むことができるようになりました。
空白の4世紀は、朝鮮半島南部に拠点を持ち、中北部の百済、新羅、高句麗とは政治的駆け引きや軍事的衝突を繰り返していた推測されます。
そして、5世紀には、倭の五王は、南朝鮮諸国の軍事的支配権と倭国内部の正統王権の承認を中国 宋に求めつづけたのです。
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「倭の五王」が、歴代のどの天皇にあたるのか。その比定を最初に行ったのは室町時代中期の僧、瑞渓周鳳といわれています。その著「善隣国宝記」で、日本書紀にある即位年をあてはめ、讃を允恭天皇としました。
江戸時代、儒学者の松下見林が五王の宋への遣使の年代を、日本書紀の履中天皇から雄略天皇にあたると想定し、漢字の類似性から讃=履中、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略各天皇としました。
儒学者で政治家の新井白石は、日本書紀の紀年には否定的ながら、松下見林と同様の比定をしています。
近年は、讃は応神か仁徳か履中、珍は反正か仁徳、済は允恭、興は安康、武は雄略の各天皇に比定する説が多いようです。
歴史シアター 産経ニュースHPよりお借りしました。
しかし、讃と珍の人物比定については『宋書』と『古事記』『日本書紀』の伝承に食い違いがあるため諸説あって特に有力な仮説は無いようです。
さらに、「倭の五王」とは九州王朝の王であり、大和政権の天皇ではないとする考え方もあります。
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いずれにしても、空白の4世紀とは、朝鮮半島での軍事的衝突が繰り返された時代であることは確かなようです。
しかし、その時の倭国側は九州の倭なのか、大和政権なのかは、未だに議論の最中のようです。
はい! 今回は以上です。
それじゃあ、またね。