無責任論 | 音楽的間食

無責任論

いやだから、そのうちガチャンコとwww


・・・
押尾の裁判が三面記事で踊ってる。
事実、真実は僕には分からないけれど、関係者(証人)の話だけをそのまま受取れば押尾は人間じゃないね。


と、人間、人間、人間・・・
人間とは何か?
いやマーク・トウェインの著作じゃなく。


押尾の三面記事を読んでると様々な模様が見える。
(個別に書くと気分が悪くなるから、三々五々、記事見て印象を持てばいいと思う。)


白けてるんだよね、証人の発言も、記事自体も。

うーん、ニュアンスが難しいけど「白けてる」っていうのは無情だってことだな。

無情っていうのはつまり「記号化」するってことだよ、自分も相手も。


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表面っつらは心配できても自分一人の責任すら全うできないのがヒト。


僕はネガティブではないんだ、思考として、このことに関して。
全うできない弱い存在だからこそ、多くの都合のいい(あるいは優良な)無責任を摂取し合ってバランスしてるのが人間の世の中だと思う。


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(押尾のクソ振りを擁護してるんじゃない。死刑でいいと思うよ。)

押尾の件、遊んでる最中は関係者含め「無責任に楽しんでた」と思う。
ことが事件性を持って振れてしまった今、今度は無責任に罵り合ってる。
醜悪な無責任。


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よく言うよね「誰も責められない」って。(押尾の件じゃないよ)

僕は違うと思う。誰もが責められない状況であるなら、誰もが責められるんだよ。



正しい無責任、良質な無責任、そんなもの在るのか?
具体的な指標なんて在るわけない。
でも感覚的にそれが必要だと思うし、それで繋がるのが理想だと。


それは方や、
間違った無責任、悪質な無責任が、
「日常的に」よく目につくことへの反骨でもあるんだな。


粋な無責任でいこう。


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何故か車寅次郎が浮かんでしまう、極端な脳みそではあるけれど