すべての貧困バッシングは、通訳すると「黙れ」ということ 「犠牲の累進性」という言葉で対抗しよう | いわき市民のブログ I am An Iwaki Citizen.

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「真実を知らない者は愚か者でしかない。
だが、真実を知っているにもかかわらず、それを嘘という奴、
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ベルトルト・ビレヒト: ガリレイの生涯、第13幕

すべての貧困バッシングは、通訳すると「黙れ」ということ 「犠牲の累進性」という言葉で対抗しよう

http://www.huffingtonpost.jp/karin-amamiya/poverty-in-japan_b_11808912.html

 

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たった数日の告知期間だったのに、これだけの人数が集まったデモに大きな勇気を貰ったわけだが、デモに参加して、改めて思い出した言葉がある。

それは「犠牲の累進性」という言葉。
私が社会学者の入江公康氏からその言葉を聞いたのは、もう10年も前のことだ。
この連載でも何度か書いてきたが、どういう意味かというと、以下のような時に使われる。

例えばこの国の正社員が長時間労働で過労死しそうで大変だったとする。が、「大変だ」と言った途端に「低賃金で不安定な非正規労働者の方が大変だ」と言われる。一方で非正規の人が非正規ゆえの苦労を口にすると、「ホームレスの方が大変だ」などと言われる。しかし、ホームレス状態にある人がその状況の過酷さを口にしたところで、「もっと貧しい国の餓死寸前の人の方が大変だ」「紛争から逃げている難民の方が大変だ」なんて言われてしまう。

結局、そうやって「より過酷な状況に置かれている人」と比較することで「お前の苦しみなんて大したものではない、甘えるな」と口を封じていくようなやり方。これを「犠牲の累進性」と呼ぶのである。

今回の高校生バッシングも、悲しいくらいに同じ構図だ。映画を観ている、外食している、アニメグッズを持っている。だから「お前なんて大変じゃない」「甘えるな」とバッシングする。しかし、そんなことをやっていると、一応先進国であるこの国で「貧困問題について発言する権利がある当事者」はおそらく一人もいなくなってしまうだろう。

この日のデモ前集会で、安田浩一氏がスピーチしたことが印象に残っている。安田氏は、週刊誌で片山さつき氏と対談した時のことに触れ、言った。

「その時、生活保護に関する話をしました。片山さんがなんとおっしゃったかと言うと、『最近ね、生活保護の申請にくる女性の中にアクセサリーをしている女性がいるのよ』と」
 
さて、この片山氏の発言について、あなたはどう思うだろうか。「なんだと、アクセサリーなんてけしからん!」と思った人、その理由を論理的に説明できるだろうか。アクセサリーをつけているという事実は、どの法律のどの部分に抵触するのだろう?

もちろん、どこにも抵触しない。なのに、私たちの中には「生活保護を申請する人がアクセサリーをつけている」=「贅沢」と思ってしまうような思考回路がいつの間にか刷り込まれていないだろうか。おそらく、今の日本は、普通に生きているだけでそんな思考回路が条件反射的に染み付いてしまうほどに異常な社会なのだと思う。

だからこそ、そんな「条件反射」に自覚的になるべく努力していないと、たちまち人権侵害に加担してしまうおそれがある。もちろん、自分自身も含めてだ。

例えばアクセサリーを問題にするなら、化粧は? 髪を染めていることは? 飲酒や喫煙は? 古着屋で安く買った服を自分なりにコーディネートすることは?

そんなことをいちいち問題にする社会は、突き詰めると「見るからにズタボロの身なり」をしている人しか生活保護の申請すらできないということになってしまわないだろうか。その次に待っているのは、その服装が「どれくらいボロボロか」がいちいち評価の対象となる社会だ。
 

そんな社会は、病んでいると私は思う。

 

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