マスコミに載らない海外記事 「福島、四度目の冬」 | いわき市民のブログ I am An Iwaki Citizen.

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ベルトルト・ビレヒト: ガリレイの生涯、第13幕

福島、四度目の冬
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-3d12.html


福島原発災害以来、四度目の冬、多くの避難民の人々は依然不安定な状態にある
Alexis Dudden
2015年1月5日

“いえ何も。新年は何の予定もありません。全く何も。誰も来ません。”内気な丸顔の女性はこうした言葉を、防護マスクに言い捨てた。ほんの前まで、彼女は小さな町、富岡町の数人の元住民達と、全員が知っていた友人を回想しながら、楽しげに笑っていたのだ。ところが年末年始について尋ねられると、彼女はとたんにひどく冷淡になった。

地震、津波と、核爆発の悪夢の2011年3月11日以前、富岡には15,839人の住民がいた。5代続く農場を放棄することを拒否している今や有名な米農家の松村直登たった一人を除いて、全員が去った。

何よりも混乱と絶望はよくあることで、2013年3月25日に、政府当局が、約40平方キロの海岸地帯を、帰還困難、居住制限と避難指示解除準備の三区域に分割して、生活状態を、一層戸惑うほど悪化させた。政府が採用した科学者達が、ここと原発近くの他の地域のそうした分割を、いわゆる年間許容被爆量に基づいて決定したのだ。そのような指定は、科学的表現の上では、超現実的な意味しかなさそうだ。ところが、日々の生活では、これはつまり道路が真ん中で分断され、一方の側は“安全”なのに、目と鼻の先の家々は、今後何万年も住めないとされることを意味する。

関係者全員、公式指定が、補償の上で、極めて重要であることを理解している。もしも土地が“帰還困難”以外のどこかにある場合、さほど長くは賠償金をもらえなくなる。そのようなニュアンスが一体となった場合、四度目の冬を不安定な状態に瀕している人々に、一体どのように影響を与えるかということは、さほど知られていない。

国内追放という暮らし

富岡の元住民の多くは現在40キロ西方にあり、樹齢1,000年の桜で有名な田舎の町、三春で生活している。事故“避難者”と公式に分類された総計約140,000人のうち、約2,000人が、現在三春で生活している。“原発避難民”という言葉はもはやない。全員が十把一絡げにされた。ところが福島第一原子力発電所がメルトダウンに陥って以来、かつての生活から永久に締め出された人々の中には、3年半で10箇所もの避難住宅で暮らした人までいるのだ。

ある日の午後、富岡の永久“避難”民達の小さな集団が、密集して建てられ、主に60代か、70代の夫婦や独り者用の小部屋に分けられた、20棟程ある砂色の建物の間に隠された明るく照明された談話室に集まっていた。50代の男性が目立っていた。事故前の仕事は、原子力発電所の作業員用の弁当提供だった。活気に満ちていて、どこにでも行けそうにみえるのに、富岡で生活するのは認めないが、放置して死なせる気になれない愛するダックスフントのショコラを週に数回訪問するのは認める規則のワナにはまっているのだ。

数カ月前まで、多くの避難民達は戻れる可能性を依然信じていた。松本は、そのような解決策は、もはや考えていない。“当時、そう言ってくれさえしたら、我々が戻ることはできないと言ってくれていれば、家族をつれて、青森(北日本の)に引っ越し、一緒に暮らせたでしょうに”と彼は言った。彼は、他の多くの人々が最悪だと表現するものを共有していた。一家は引き裂かれ、子供や孫達は今や日本中でばらばらに暮らしており、来ることはごく稀だ。避難所は狭く、備品はあるが、空間はほとんどなく、確かに耕す畑はない。塗り立ての街路標識が住宅地を示しており、歓迎しているかのような様子だか、内部にいる人々は、標識は“行く手を塞いで”おり、“しばらくすると、自分は期待されていないことを悟る”ことを知っている。

抽選当選者

ある女性には他の人々を驚かせる話題があった。“前に話しておかずに申し訳ない”。どうやら他人が二人混じっている機会を利用して、話題を語り始めた。“(住宅)抽選に応募したら、申し訳ないが、当たってしまったんだ。本当に申し訳ない。数週間したら私はアパートに引っ越しする。たいしたところではないけど。私はひとりだから、当たる可能性が高いと思っていたの。許して。”

こうした言葉を、文化本質主義になぞらえるむきもあろうが、強烈な未整理の雰囲気が部屋内に満ちた。希薄な共同体の感覚が、またもやバラバラになり、わずかな人が彼女の幸運を祈ったものの、彼女はこれまで、6箇所もの違う避難所で暮らしてきたのだが、それ以外の人は、次第に気分が悪そうな様子になり、一言も発言しなかった。涙をこらえようとしている女性もいた。

“ふくしまからはじめよう Future From Fukushima”という、日本語と英語の気まずい標語と共に新たに発表された住宅政策は、始めからずっとそうであったものの正体をさらけ出した。進めながら、場当たりで何とかするのだ。些事にこそ痛感させられる。例え、ずっと住めるアパートが当たり、11年間以上生き延びられるほど幸運だったとしても、そこで家賃支払いを始めなければならないのだ。

抽選に当たった女性はこれを知らなかったし、誰一人として、知っていても、彼女に教えようとはしなかった。彼女は、この冬、家と呼ぶ場所に脱出する予定だ。一方、中には、2011年3月以来、出現した唯一明らかな事実の一つである悲しい統計の一部となる人々もいるだろう。福島における当初の災害ではなく、ストレスに関係する原因で、多くの人々が亡くなった。

Alexis Duddenはコネティカット大学歴史学教授、Foreign Policy In Focus寄稿者で、Troubled Apologies Among Japan, Korea、and the United States (Columbia University Press、2008年刊)の著者。

記事原文のurl:http://fpif.org/fourth-winter-fukushima/