実は、「あなたに、愛されていた」
2014年 入院中でのできごとです。
病院の許可を得て外出。
荷物を取りに自宅へ戻る。
友達が車で送ってくれたので5分で戻るから待ってて
と言いながら20分も待たせてしまう・・・なぜ?
何気に棚にある幼少の頃の家族写真が目についた。
何気に裏を見たら 驚いた。
亡き父の万年筆の達筆な字で
「5月5日 子供の日」
僕の事を考えて書いてくれてたの?と思うと
涙が止まらなかった…
実は、僕はあなたに、愛されていた
「とにかく父が大嫌いな人たちへ捧ぐ」
「父・川根貞雄」
今から30年前68歳で人生を終える
それはそれは「お父さん大往生だったね」
と言われるほど、誰にも迷惑をかけずに
ひっそりと病院で息を引き取った。
真夜中の1時半・・・ 気分良く
お風呂で読書を2時間ばかししていた頃
自宅の茶の間の電話が鳴る・・
「ジリリリ~~ン」
こんな時間に嫌な電話だなぁ~~~。
間違い電話ならまだ良いが。
しかし なぜか不安が的中した。
嫌な電話だなぁ~~~とその思いをつのらせると
「お父さんが・・・」
まさか・・・入院はしていたがまさか亡くなるとは。
何をしていいかわからず
お風呂でそのまま、また本を読み続ける。
人間思いもよらない事態が起きたとき
一瞬何をしていいか、わからなくなるとは
このことだ)
おそらく10分は本を開いたまま
うつろっていたに違いないはず。
急いでお風呂を出て、喪服を持って
真夜中に札幌から室蘭へ車を急がす。
今から30年前のことだ。
なぜか 悲しくなかったのを覚えてる。
やっと死んでくれたか・という気持ちで一杯だった。
いつも家族で話していたこと。
「お父さん早く死ねばいいね」
「事故では相手に迷惑をかけるから急死ならいい」
そんな父の死を望んでいた家族だった。
今考えれば、ひどいと思う。
思えば僕が 恐怖で言葉がでなくなったことも
姉が大人になるまで「おねしょ」をしてたことも
すべて 父の酒乱のせいだ。
山口県で過ごしていたが
あまりのお酒で回りに迷惑をかけるからと
母が兄を頼って北海道・登別に来たのは
僕が小学の5年生の時だった。
見知らぬ土地で父はお酒もやめ
ちゃんと仕事をしてくれるだろう
という母の願いも空しく
父は誰もしか叱ってくれない登別で
ますますお酒を飲むようになる
母が言うには
「お父さんは結婚生活の3分の一は入院してるね」
体が黄色くなり
顔が腫れて何度も死に掛けては生き返していた。
いわゆるお酒の飲みすぎによる肝硬変だ!
病院の先生から
「生きてるなんて信じられない。
もし死んだら解剖させていただけませんか?」
死ななかったのが不思議だったようである
退院して お酒を飲まないのはほんの1週間。
また朝からお酒を飲み続け仕事にも行かない。
母を殴る蹴る 包丁を振り回す。
子供だった僕達は必死で止める。
真夜中に何度、母から手を握られ外へ飛び出して
いったかわからない。
母はそのたびに「じゅんぼ どこに行こう・・」
髪を振り乱し青アザをつくり母と一緒に泣きながら
あてもなく歩き続けるのを
一緒に黙ってついていった・・・幼い頃。
以前5日間断食をした。
九州の阿蘇山にある僕の師匠の「北川八郎先生」
半農半陶生活を送る仙人みたいな人だ
北川先生は、陶芸が本職だからと
著書や講演会のギャラはすべて寄付をしている。
詳しくは MIXIコミュニティ「北川八郎先生」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=3240990
阿蘇での断食の3日目くらいだったろうか。
先生は言う
「じゅんちゃん
今日はお父さんのことを考えるとええよ」
朝に散歩をして露天風呂に入り写経をして
(ほとんどしなかったが)
一日中、父のことを考えていた・・・
考えてもお酒を飲んで暴れることしか出てこない
考えてどうなるんだろう、思い出したくもないのに。
しかし師匠の言われたことは絶対だ 。
僕はずっと父のことを考えていた
幼少の頃、
酔った父の乗る自転車の後ろにしがみついて・・
ここまでしか覚えてないはずが・・・
気づくと病院で頭を包帯でぐるぐる巻いて
入院してる僕がいた・・・
それは 小学に上がる前に
写真が残っていたのを思い出した・・・
その写真でも父は酔って目がうつろだ。
小学の頃に 自分がうまく話せないことに
気づく、いわゆる吃音「どもる」症状だ。
酔って見境のない大きな父の声。
母を大声で殴る父。恐怖でおののく姉と僕。
あぁ~~~こうやって
思い出して、書いていても
また心臓がドキドキする
中学、高校・・・父が嫌いだった。
と同時に母が可哀想だった
なぜ母さんは文句も言わず
ただ黙って殴られてるんだろう!
もっと強くなればいいのに。
僕が強い女性を好きになるのは
そういった弱いかわいそうな女性は
母の面影を見るような気がするからだ
美容学校・・・・そして自分で独立してから・・・
書くときりがない
最悪なのは 営業中にお店にやってきて
「じゅんお金あるか・・・」とお客さんが
たくさんいるのに酔った顔をして
お店に出入りする父がいた。
それでも母を心配させたくないから
僕はそのことを母に言ったことがない
そういえば
幼稚園のときお年玉や親戚からもらった小銭を
ブタちゃんの貯金箱に入れていて貯まって貯金箱が
重くなるのを楽しみにしていた頃
学校から帰ってきたら貯金箱がない。
探すと台所に転がっていた
母に聞いたら知らないという。
子供の楽しみにしていた貯金箱の小銭まで
お酒代へと消えていく・・・・
でもそんなことも 誰にもいえないし
父が酒を飲んでいるということも母には言えない
だから父のことを思い出しても
悪いことしかないんだ。
でも北川先生は、
一日中お父さんのことを考えなさいと言う
夕暮れに差し掛かる頃・・・不思議な変化が
なんだか悲しくなって泣けてきた
父が死んで思い出しても
何一つ可愛がってもらったことがない
「大嫌いだ!!!!!」
その気持ちが夕暮れと共に やがて・・・・
温かい気持ちに変わり、ボロボロと涙が・・・
あれっ・・・・
小学6年のとき 野球部で試合があるからとスパイクを
用意しておくようにと野球部の先生から言われたことを思い出す。
僕はお金に困る母に スパイクを買ってとか
そんなことは言えなかった。
いくらなのか見当もつかない。
だからずっと黙っていた
スパイクがなければ試合に出れないのか?
運動靴でもいいんじゃないか?
母には言えない が、試合は迫る
仲間は試合が近づくにつれ、
スパイクを履く選手が多くなっていく
僕は・・・・・・・・
とうとう試合の二日前、こっそり母に言う。
が、僕が一番云って欲しくない言葉を言う
「お父さんに聞いてみるね」
なんで なんでお父さんに聞くんだ!
お母さんだけの胸に留めてこっそりスパイク買ってよ
父に言ったらだめだ・・・・買ってもらえない
僕のお小遣いまで黙って獲っていく父だ。
あきらめていた
スパイクのないまま試合に出る覚悟でいた。
その頃の僕にとって、みんなスパイクはいてるのに
僕だけ運動靴は恥ずかしかった。あきらめていた。
夜ご飯を食べようと思っていたとき
父が 「じゅん、ちょっと行くぞ」
ん? どこへ行くかわからなかった・・・・
汽車に揺られ 一言も会話もないまま
「どこへいくんだろう」と不安がってた
小さな頃の僕がいた・・・
登別から汽車に乗り
隣町の幌別の着いた先はスポーツ店
「お前の足何センチだ」
「ぼ、ぼ、ぼく24・5センチかな・・・・」
忘れていたはずの父からのプレゼント。
こんなことがあったなんて思いもしなかった
しかもこんなことまで思い出した
スパイクの紐を結んだときの「asics」と言う文字・・
なぜ・・・なぜそんなことまで思い出すんだろう
一日中父のことを考えてアレだけ嫌いだったのに
優しくされたことなんて一度もなかったはずなのに
それからと言うものあれよあれよと出てくる
そういえばキャッチボールもしたよ
高校の頃マージャンもしたよ
父は友達に国士無双を振ったよ
たくさんたくさん可愛がられたよ・・・
すみません ・・・もう書けなくなった
これを内観と言う。
亡き父に お水を上げようっと・・
最後に言おう。 実は、
僕はあなたに、愛されていた
「お父さん ありがとね」
父に感謝を込めて・・・川根順史