独裁者よりも怖い民衆 | リベラル日誌

独裁者よりも怖い民衆

公務員が何かと非難される昨今、Twitter上である匿名男性とNHKのやり取りがちょっとした社会現象になった。この話題の経緯 は、すでによく知られている。最初に男性が「ちょっとつぶやく頻度を減らしてください」とNHKのアカウントに意見し、NHKが「アンフォローをおすすめいたします。」と男性に伝え、その対応に不満をもった男性が「NHKは、受信料をもらって運営されていますよね?その職員の職務時間内のつぶやきは、半ば以上、職務なはずです。NHKのPRを知る権利がこちらにはあります。安易にアンフォローしろとはなにごとですか?」とケンカを売り、議論が泥沼化して大きな反響を呼んだのだ。


この後も色々とやり取りは続くわけだけど、二人の意見交換は平行線のままだから続けて読んでもあんまり意味はない。


最初に断っておくけれど、ぼくはこのやり取りを面白おかしく紹介したいわけでも、二人のやり取りに白黒をつけたいわけでもない。なぜこの話題を取上げるかというと、このやり取りが現代の世の中の状況を理解する重要な手がかりとなるからだ。



世間ではシンプルな言葉が求められ、言い切り型の物言いであふれている。技術や商品は日ごとに進歩し、世の中は分かりにくいことばかりだけど、言葉巧みに因果を説いて「~は~だ」とズバッと明快に説明するのが特徴だ。最近流行りの占いやスピリチュアルなケースで言えば、「あなたは現在不幸だ。私を信じれば、あなたは幸せになれる」なんていうのが典型で、心が弱っていたり、宗教的な物言いに疑いを持たないと「運がよくなる」、「絶対成功する」、「必ず儲かる」といった安っぽい奇跡に惹かれてしまうことがある。これらは怪しげな団体が勧誘の「つかみ」として行なう一般例でもある。


消費者は生産者に対し、すっかり強い立場になってしまった。高度成長期の景気拡大に伴う消費社会化の中で、消費者は大量に溢れる商品の中から自分にとって「良いもの」を容易に取捨選択することが可能になって、選択権を持つ権利者になった。とにかく販売することに重点をおき、「売ってしまえば、後はあんたの責任」、という悪徳業者もあったはずだから、「クーリングオフ」や「PL法」の制定などの法整備に意味はあったのだろうけれど、少しでも生産者の側に落ち度があれば、猛然とクレームを続ける消費者を野放しにするような「消費者に対し過保護」な風潮も見られるようになった。



普段は分別のあるように見える人でも、病院や学校という場に赴くとともすれば「患者様」、「保護者様」に変身し、医者や教師に頭を下げさせる。市役所などの公的機関では、「おまえたちは国民の税金で飯を食っているんだ」と大きな声でどなりちらし、慇懃無礼な態度で接する人もいる。そうした行動を批判されれば一小市民として振る舞い弱者を装うのだからたちが悪い。



もちろんこの話は少し大げさかもしれない。でも物事の善し悪しは別として、時代を読み解く重要な事実が隠されている。それは一般大衆が完全な社会的権力の座に登ったという事実だ。このような状態をスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットは『大衆の反逆』で次のように述べている。



「大衆を構成している個々人が、自分が特殊の才能をもっていると信じ込んだとしても、それは単なる個人的な錯覚の一例にしかすぎないのであって、社会的秩序の攪乱を意味するものではない。今日の特徴は、凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである」



大阪市長・橋下徹の政治手法をめぐる独裁論争が世の中を賑わしている。すでに広く知られているように、両者の論争はかみ合っていないから、論争そのものに注目してもあんまり面白くない。橋下派は「これまでの既存組織が構造的な問題に目を向けず、赤字を垂れ流してきた。だからお前たちは無能なんだ」と主張するし、反橋下派は「権力を振りかざし、改革を断行するなんて異常だ」と主張して独裁ぶりが露呈されたと溜飲を下げている。双方の勝ち負けには興味はないけれど、不思議な決着だ。


橋下市長は不況下においても給料が上がり続け、民間企業と比較しても相対的に給料が高い公務員を猛然と批判し、公務員改革を押し進めている。また原発問題が叫ばれる中、大阪市は6月の株主総会で、関電の原発全廃を「速やかに」に実施することを要請するそうだ。既得権益に対し嫌悪感を抱いている民意に忠実に従い、声の大きい大衆の声を聞き漏らさないように注意をはらっている。


国家と大衆は、ともに匿名であるという点においてのみ一致している。だけど大衆は自分が国家であると信じこんでいて、「ある勢力が勝手な行動をしている」ということを口実に作っては国家を動かし、国家を使って、国家の邪魔になる創造的な少数者を押しつぶそうとする傾向がある。



ファシズムが実は典型的な大衆人の運動であったことは広く知られている。ヒトラーやムッソリーニによって造られたように見えた国家は、まさに彼らが攻撃していた力とか思想といったもの、つまり自由主義的デモクラシーによって造られたものであって、彼らが造りあげたものではなかったのだ。独裁者と呼ばれた彼らは、多くの政治家とは異なり、常に民意に気を配り、大衆に耳を傾けていた。



オルテガは分別のない大衆が、実質的に社会的権力を握っている状況を「大衆の反逆」と呼んで危惧している。つまりぼくらが恐れたり、憎んだり、議論しているのは、橋下市長やあの匿名男性なんかではなくて、ポピュリズムそのものなのだ。ぼくたちが本当に恐れなければいけないのは、凡俗を逆手にとって振舞い続ける大衆であり、そうした大衆の民意に忠実に従う「独裁者」なのだ。ぼくたちが変わることができなければ、これからも「独裁者」は誕生するだろうし、権威や権利を主張するアブナイ消費者がいなくなることはないだろう。



参考文献

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)