ファストフードについて改めて考えてみた | リベラル日誌

ファストフードについて改めて考えてみた


民主党代表選も終わり、野田新総理大臣の下、復興・経済再生に向けて、再び動き出すようである。しかしながら、米労働省が先日発表した8月の雇用統計によると、非農業部門の雇用者数は前月比横ばいとなり、10ヶ月続いた雇用増が途絶え、11ヶ月ぶりの低水準に沈んだ。米雇用回復の停滞感を浮き彫りにした結果となり、日本のマーケットにも影響することになるだろう。


日本では、世界的な財政問題と景気悪化懸念から円高が続き、輸出産業に打撃を与えている。3年前のリーマン・ショックを思い起こさせるような雇用の停滞や賃金低下を憂慮し、消費が落ち込むことになるだろう。米国において、成功のシンボルとも言うべき投資銀行のバンカー達でさえも、解雇リスクと激務が給料に合わず、自ら職を変える動きが活発化しているようだ。


こんなイケテナイ時代で僕らの助けとなってくれるのがファスト・フード店であるかもしれない。ファストフード・チェーンはグローバル化の先兵であり、物差しでもあるといえるだろう。例えば、以前「ビックマック・インデックス」なんて言葉が経済の専門雑誌に紹介され議論されたくらいだ。このようにファスト・フード店は、ある意味で僕らの生活の一部と化しているかもしれない。


ただ本当にファストフードは僕らに恩恵だけをもたらしてくれるものなのだろうか。本日はこの点に関して、少し考えていこうと思うのだ。



エリート主義者はことあるごとにファストフードを見下して、その味を酷評し、食文化の安っぽい事例とみなしてきた。でも僕は価格と味を鑑みれば、このような批判は的外れであると考えるし、取るに足らないものであると感じる。本当の問題は、子供達への影響である。エリック・シュローサー著『ファストフードが世界を食いつくす』にも記されているが、ファストフードは子供達を対象に大量に販売され、当の子供達とさほど年齢の変わらないアルバイトの若者によって作られている。この業界は年少者に食べ物を提供すると同時に、年少者を食い物しているのだ。



子供の頃に親しんだ食べ物の匂いは、人の心に一生消えない跡を刻みつけるらしく、大人になってもよくそこへ戻っていくのだそうだ。つまり子供時代の「ハッピーセット」の思い出が、マクドナルドに足しげく通う大人の顧客を作り出すわけだ。そう考えると、お袋の味はいつしか「ハッピーセット」や「バリューセット」に変わっているのかもしれない。これは本当に恐ろしいことである。



またエリックは、ハンバーガーが出来るまでの過酷で非人間的な分業システムを生々しく著書で描いている。アイダホのじゃがいも畑、食肉処理場(これが1番生々しい)、ファストフード店の店舗…と背筋が寒くなるようなルポタージュである。



さらに映画「スーパーサイズミー」では、大人達でさえも時に健康被害を及ぼすことを僕達に教えてくれた。これは、出演者本人(モーガン・スパーロック)が1日に3回、30日間マクドナルドのファストフードを食べ続けたらどうなるかを記録した映画である。この間、健康のための運動はやめ、彼の身におこる身体的・精神的な影響について記録している。さらに、スパーロックはファストフード業界の社会的な影響を調査し、この業界が利益のために栄養を犠牲にしていることを明らかにした。



日ごとに、明らかに彼の様子がおかしくなり、鬱状態に陥ったり、嘔吐をしたりと視聴者をひどく不安にさせるモノとなっている。確かに一部批判があるように、1日3回必ずファストフードを食べるという「普通」とは言えない食生活を送っているものの、ファストフードが僕らの健康に、ある程度ダメージを与えることは事実であろう。だからこそ、大人達であっても、ファストフードの魅力(安くて、手軽)とうまくつきあっていかないといけないのだ。僕自身、先日数年ぶりにファストフード店に訪れた際、安くて手軽に食べられることについては、大変魅力を感じた。ただサラリーマンのオサーンが「スマイル0円」を頼んでいるのを見て辟易したけれども。




僕達は、ファストフードのゲートをくぐる前に、またはカウンターで注文する前に、その食品のたどってきたルーツを意識するべきなのかもしれない。食品は命と文化をつなぐ大切な架け橋なのだから。



参考文献

ファストフードが世界を食いつくす
スーパーサイズ・ミー 通常版 [DVD]