♂1人用台本

所要時間:10分


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男: 10月23日、金曜日。晴れ。

例の人物への我が好意は、日に日に募りゆく一方である。苦しい、の一言。しかし、本人に打ち明ける気にはならない。何せ、まともに話したことすらないのだから。かといって、誰かに相談することもできない。昨夜、唯一とも言える学友に相談しようとしたところ、恋というワードを出した途端に「おまえ、現代文と付き合ってたんじゃなかったの?」と一笑に付されたのだ。思索と読書以外に趣味を持たず、可能ならば塒(ねぐら)に引きこもっていたいと願う俺にとって、どこにも行き場のないこの思いのはけ口は、もはや、日記しか残されていない。これが日記購入の動機である……と書いているうちに、ほとんど行が埋まってしまった。もっと行数のあるものを買えば良かったかも知れない……と言うか、文字を大きく書き過ぎたのか。迂闊(うかつ)、どうやらはりきり過ぎたようである。
ともあれ、幾分(いくぶん)気分が晴れた気がする。日記効果、恐るべし。


男: 10月30日、金曜日。曇り。
例の人物を食堂で見かけた。温泉卵を1つだけ、ぽつりとトレーの上に載せた例の人物は、一緒にいるところを頻繁に見かける3人の学友と歓談していた。俺はトレーの上の寂しげな小皿を見つめながら、ときどき思い出したように突(つつ)かれるあの温泉卵になりたいと願った。

 「温泉卵はデザートなの」と、なんの脈絡も無く、例の人物は言った。例の人物の声は、鈴の鳴るのに似ていて風情(ふぜい)がある。突拍子の無いことを、心のままに言い出すところもなかなか好ましい。いつの日か盗み聴くのではなく、直接会話を……恥ずかしくなってきたので、ここでやめることにする。
この一週間、例の人物についてひたすら書き記しては羞恥を覚えてやめる、ということを繰り返してきたが、何もできずにひたすら悶々としてきた日々に比べれば、心持ちは明るくなったように思う。

明日以降も、密やかなるこの処方箋(しょほうせん)を続けていこう。


男: 11月2日、月曜日。曇りのち雨。

月曜日と水曜日は試練である。理由は、例の人物と講義が被っているからに他ならない。
苦しいのなら、なるべく見ないようにすれば良い。と、書くだけならば簡単だが、これが至難の業なのだ。生理現象とでも言うべきか。この脚は無意識のうちに、例の人物の右斜め後ろの席へと向かい……この眼は無意識のうちに、講義の大半を睡眠学習に費やす、その姿を捉えてしまうのだ。
ああ。船を漕ぐたびに揺れる小さなお下げ。目覚めたときに驚いたように跳ねる、ゆるやかに弧(こ)を描く睫毛(まつげ)。講義終わりに、学友にノートを貸してくれるよう、手を合わせて頼むときによく見える、つややかな桜色の爪。


男: 11月4日、水曜日。雨。
鬱々(うつうつ)とした天気が続くと、心持ちも暗澹(あんたん)となってかなわない。無論、天気のせいだけではないのだが。

例の人物と、「あの日」以来はじめて眼が合った。
講義室に入らんとする時だった。向かいから例の人物が、いつもの学友3人と、賑(にぎ)やかに笑い合いながらやってきた。俺は条件反射のごとくその姿を捉え……そうして、たまたま、眼が合った。合ってしまった。黒目がちな瞳。彼女は、視線を逸らすことなくまばたきをし……微笑んだまま、他の誰にでもなく、俺に向かって、かすかに会釈した。
たったそれだけのこと。ああ。たったそれだけのこと。だと言うのに、俺はすさまじく動揺した。肺に高熱の、「もやもや」としか言いようのないものが充満した。心臓がくしゃりと紙屑のようになり、それから爆発的に膨らんだ。熱い血潮が喉の奥までせり上がってくるのを感じた。
気づけば回れ右をして、走り出していた。
便所の個室に駆け込んで、しゃがみ込んで、馬鹿なことに、俺は泣いた。声を殺して泣いた。
俺は、ああ、俺は、本当に、どうしてしまったのだ。


男: 11月5日、木曜日。曇り。
1日置いてもわからない。暗い便所の中で、俺は、どうして泣いたのだろうか。


男: 11月9日、月曜日。曇りときどき雨。
彼女と一緒の講義を休んでしまいたかったが、水曜にサボタージュをしている以上気が引ける。自分のことながら、つくづく真面目な男だ。
我が重篤な恋煩いについて、彼女との出会いを思う。
と言っても、出会いというほどのものでもない。あれは一カ月ほど前、学期初めで講義室が混み合っていた頃のこと。講義が始まる間近になって駆け込んできた彼女は、たまたま、入り口に一番近い位置に座っていた、俺の隣に腰を下ろした。

講義中。むせかえるような人いきれの中。彼女は俺の肩を突(つつ)いた。黒目がちな瞳。「シャープペンシル、貸してもらえませんか」。彼女は小さな小さな声で、実に申し訳なさそうに言った。俺はシャープペンシルと、それだけでは困るだろうからと消しゴムを手渡した。「ありがとうございます」。そう彼女がえくぼを見せた途端、チカりと視界が明るくなったような錯覚があった。

あの刹那に、俺は恐らく、恋をした。そんな些細極まりないやりとりで恋に落ち、あんな些細極まりないことで、日毎にもがき苦しんでいる俺は、ひょっとするとおかしいのだろうか。

……いや。これが普通なのだとしても、変わるまい。恋なんて、知らなければ良かった。


男: 11月10日、火曜日。曇り。

以前、相談が未遂に終わった学友に、大学入学以来3人目の彼女ができる。


男: 11月16日、月曜日。晴れ。

講義が始まる前に、彼女から飴玉を差し出された。

茫然として何も言えずにいると、彼女は「前に筆記用具を貸してもらったお礼です」と言って、俺の固いてのひらに、柔らかなてのひらを押し付けた。全身の制御に必死になりながら見上げると、ほっそりとした頬に浮かぶえくぼが、やはり眩(まぶ)しかった。

今になって、ポケットに押し込んだその飴玉が、レモン味だったことを知る。


男: 11月18日、水曜日。曇り。

……白紙のページと向き合ってみたものの、どうにも、整理がついていない。いかん。思い返すだけで働(どう)、動揺してましう。ああ、ボールペンで書くと容易に修正できないのがうらめしい。とりあえず、今日のことは、後日書こう。いや、書かなくてもいいのではないか。正直、訳がわからず、死にそうだ。


男: 11月20日、金曜日。晴れ。

水曜の日記を読み返してみて、字の汚さやら誤字やらで、自分がいかに動転していたかがわかり、一人苦笑を禁じ得ない。

とはいえ、あまりに突飛な展開だ、うろたえるのも仕方がなかろう。水曜日に彼女から告白を受けた。講義終わりに、「このあと時間良いですか」と言われ、訳の分からぬまま付いていった結果がそれであった。

あの時ほど、脳味噌が「なぜ」の一言で埋め尽くされた瞬間はない。なぜ、筆記用具を借りただけの男なんぞに好意を抱けるのか? なぜ、ろくに知りもしない間柄で告白ができるのか? だが、彼女は俺のすべての疑問を、たったの一言で片付けてしまった。

「恋は病気なんだから、仕方がないでしょう」。

あの時はとにもかくにも訳が分からず、「少し考えさせてほしい」と、逃げるようにしてその場から立ち去ったが……今ならば、分かる。彼女の言う通り、恋は病なのだ。我が理性などお構いなしに発症(はっしょう)し……我が挙動を、我が涙腺を、我が心を支配する、恐ろしい病なのだ。

俺はきっと、数年後と言わず数日後にこの日記を読み返し、今の俺を嘲笑うだろう。しかしそれでも良い。そう、仕方がない。仕方がないのだ。苦悩も苦痛もいかなる不条理も、一切が仕方がない。恋とは病なのだから。苦しくとも喜ばしい。恥じらいながらも酔いしれる。脳髄(のうずい)を溶かし、眼を潰し、臓器という臓器をおかす。恋とは病なのだから。恋とは病なのだから!


男: 11月25日、水曜日。晴れ。

彼女、片桐桃子(かたぎりとうこ)に告白した。