今回のポーランド旅行の一番の目的であるアウシュヴィッツ強制収容所にやってきました。よくTVでもドキュメント番組が放送されているため、ご存知の方も多いと思いますが、ここは
一大殺人工場!!
とも言える場所です。
第二次世界大戦が始まりポーランドがナチス・ドイツの支配下に置かれた1940年に、ポーランドの政治犯を収容するために造られましたが、その後、ロマ、ソ連軍捕虜も収容されるようになり施設が拡大されていきました。
強制収用所をテーマにした、シンドラーのリストという映画がありますが、あの作品で取り上げられていた収容所は、アウシュヴィッツではなく、クラクフ・プワシュフ強制収容所。あの場所は、現在、更地で住宅も建てられることなく閑散としており、地元の人も近寄らないそうです。
逆に、ここアウシュヴィッツ強制収容所に関しては、戦後、ほとんど当時のままの状態が保存され博物館として公開されています。また、同じ過ちを犯さぬようにとの思いから、世界遺産にも登録されました。
ここに観光した日本人の方が書いたブログだったかな?アウシュヴィッツに向かう際に、電車かバスかで一緒になったアメリカ人の旅行者と、どこに旅行するんだという話になり
日本人「アウシュヴィッツに行きます。」
といったら
アメリカ人「なんで、時間とお金をかけて、わざわざあんな悲惨な場所に行くんだ!もっと楽しいことをしろ!」
なんて言われたみたいですが、感覚の違いは、とりあえず置いておき、実際に足を運んだ感想ですが、これまでの旅行で、一番強烈なインパクトに残った、ほんと悲惨な場所です。
館内撮影可能のため、写真を撮影してきました。事実を伝えると言う意味で、削除対象になりそうな写真以外は、紹介したいと思います。
*苦手な方はここでページを閉じてください。
当時の強制収容所を上空から撮影した写真。
入口のゲートには、「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」という文字が掲げられていますが、「ARBEIT」の「B」が逆さまになっているのに気が付くと思います。
これは収容者が作らされたものですが、せめてもの抵抗の証に反対に作ったという説があるものの、今となっては、誰も理由など知る由がありません。
収容所内には、28棟の「囚人棟」があり、最大で2万8000人が収容されていました。現在、この棟は博物館となっており、棟ごとにさまざまな展示がされています。
ヒトラーのユダヤ人絶滅計画のために、ヨーロッパ各地から、ここアウシュヴィッツにユダヤ人が強制収用されました。
歴史上、ユダヤ人ほど迫害を受けてきた民族はいない、なんて言われます。さかのぼると、2000年前の古代ローマの頃から、この問題はありました。
宗教と政治の法律は別と考え、時代の流れにより法律を変えていき、神はたくさんいてもいいという多神教のローマ人。
そして
神の教え=法律で、人間が勝手に変更することはできない一神教のユダヤ人。
神君カエサルやアウグストゥスなどは、この難しいユダヤ人問題に、相手の考えを尊重するなどして、うまく対応してきましたが、後の皇帝によっては、ユダヤ人の考えを馬鹿にし、略奪などが発生しました。
宗教問題以外にも、ユダヤ人の能力の高さに嫉妬し、追放のキッカケとなったこともありました。
古代ギリシャ人は、一箇所の土地を地道に開拓し繁栄させていきましたが、ユダヤ人は、一箇所にとどまることなく、富の匂いを嗅ぎ付けて、各地を転々とし、良さそうさ場所があったら、そこに移住し成功していくスタイル。
ギリシャ人からしたら、自分たちが地道に開発した土地に、後からユダヤ人がやってきて、能力の高い民族ゆえ、自分たちよりも成功していくのを目の当たりにするのは面白くないわけです。
時は流れ、2000年後の、第二次世界大戦時、これは実録か映画のセリフか分かりませんが、シンドラーのリストでも
「今日は歴史的な日だ!後から我々の土地にやってきて、我々よりも成功していったユダヤ人を追放する日がやってきたのだ!」
なんてシーンがありました。
まさに歴史は繰り返す!
ですが、アウシュヴィッツ博物館の展示を見た感想。
ユダヤ人迫害は、もうここでピリオドを打つべきだ!
殺害されたユダヤ人の遺灰が収納された慰霊碑。ちなみに、焼却された遺灰は、そのほとんどが証拠隠滅のために、近くの川に流されました。
アウシュヴィツの近くにあるビルケナウ収容所の写真。レールと収容所がある映像を見たことがある方もいると思いますが、あれはアウシュヴィッツではなくビルケナウ収容所の映像になります。
飲まず食わずで運ばれるため、収容所に到着する前に息絶えるユダヤ人も多かったそうです。
子供や女性も関係なく運ばれてきました。
到着すると、強制労働が出来るか出来ないかが判断されます。労働に使えない人間の先は・・・・・・
労働に使えない人間は、シャワーを浴びさせるといい、裸にしてガス室送りで殺害されました。
使用されたチクロンB。殺虫剤としてドイツより運ばれました。
おびただしい数の空き缶。ドイツより運ばれたチクロンBの量は20万kgにもなります。なので、これはほんの一部。
遺体は焼却処分されました。
5号棟では、ナチスが連行した人々から没収した品々が展示されています。
没収されたトランク。後で持ち主が分かるように名前を書けとの命令で、トランクには名前が書かれていますが、二度と持ち主の手に戻ることはありませんでした。
ブラシ。
義足。
食器。
靴。
若い女性が履いていたと思われるヒール類。別の時代に生まれていたら、どんな楽しい人生になっていたかと思うと、なんともいえません。
子供が大事にしていたと思われる人形。
アウシュヴィッツ強制収容所の回りは監視塔があるほか、有刺鉄線で高圧電流が流れていたため、脱獄はほぼ不可能。そのため、絶望感からか、自ら高圧電流の流れる有刺鉄線に身を投げて自殺する囚人もいたそうです。
収容されると、名前の変わりに番号が付けられて、番号で呼ばれるようになります。番号は刺青で体に直接書かれます。
こちらが使われた道具。
また、髪の毛は刈られて丸坊主にされます。
囚人服。
収容されたユダヤ人の写真が展示されています。いつ収容されていつ死んだかが書いてあります。
つまり、ここに写っている写真の方で生き延びた人は一人もいません。
1日に与えられる食事はわずかこれだけ。
75kgあった女性がここに収容され25kgにまで落ちてしまったという記録も残っています。
子供もやせ細っています。
ここは、どんな生活だったのかが分かる棟。
わらの上で寝かされていました。
こちらはトイレ。使用できる秒数が決まっており、それを超えると処刑されることもあったそうです。
布団。
洗面所。
高待遇の囚人部屋。
ベッド。一人用ではなく、一段に7、8人が収まりました。
丸太と発泡ウレタンのような素材で作られた銃殺用の死の壁。
そのため、常に献花が絶えません。
死の壁の隣接する囚人棟は、外の様子が見えないように窓に板が取り付けられていますが、視界は防げても、銃声や悲鳴までは防ぐことはできません。中の囚人は、どんな思いだったんでしょうか・・・・・・
鉄道のレールを使用して造られた絞首台。
女性の棟と男性の棟は有刺鉄線で区切られていました。
外に近い所は設備も厳重。高圧電流が流れる有刺鉄線が2重になっています。
アウシュヴィッツの外には、収容所の司令官の官舎があります。
収容所を管理するトップの人間は、後にこの絞首台で処刑されました。
こちらはガス室。
この部屋で大量殺戮が行われました。毒ガスにより、口からは泡を吹き、目、耳、鼻などから血を流して死んでいくそうです。
遺体は隣の焼却炉で焼かれて、証拠隠滅のため遺灰は近くの川に捨てられました。
効率よく処理するために、レールを完備するなど、まさに殺人工場としか言えません。
今回、全部の写真は紹介しませんでした。それでも、ここアウシュヴィツの悲惨さが伝わったのではないかと思います。同じ過ちを繰り返さないために登録された世界遺産。
まさにその通り!!
このアウツヴィッツ強制収容所ですが、ここよりもさらに劣悪さで上を行くのがビルケナウ収容所。
それはなぜか?
次回の記事で、ビルケナウについて書きたいと思います。
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