海を背景に建てられたローマ時代のアントニウスの共同浴場にやってきました。当時は、建物は2階建てで、更衣室、温浴風呂、水風呂、サウナ、プール、噴水、トレイなど100を超える部屋が、左右対称に配置されていたそうです。
設計図を見れば、左右対称なのが一目瞭然。
施設の内部。石でできた当時の椅子が残っています。
排水設備。
ここは浴場の排水ですが、現代の雨水を排水する設備と何ら遜色はありません。
2000年近く経った今でも、雨水などがきちんと排水されています。
ある程度、復元が入っていると思いますが、コリント様式の柱。
大理石がふんだんに使われた巨大なレリーフ。
浴場の壁にも、一部ですが大理石が残っていました。
これだけの大浴場だし、目の前が海というロケーションのため、当時は賑わっていたんでしょうね。
ローマ浴場の遺跡を見ると、やはりテルマエ・ロマエを思い浮かべてしまいます。ローマ時代の浴場技師が、現代の日本にタイムスリップをして、日本のお風呂からヒントを得て、ローマの浴場設計に生かすというお話。
ローマ遺跡好きは、このマンガ楽しめると思います。
そろそろ映画も公開されます。大画面で見たい気もするけど、この前買ったiPadで、映画レンタルというのもしてみたい♪というわけで、映画館に見に行こうか、iTunesに配信されてから、家でのんびり見ようか考え中です。
でも、その前に、今回チュニジア旅行でカルタゴに訪れたからには、ガーディアン ハンニバル戦記のDVDも見なくては!ローマの歴史好きなら誰もが知っているくらい有名な、第二次ポエニ戦争(ハンニバル戦記)。現代まで数えても、歴史上で10本の指に入ると言われるほどの武将であるローマのスキピオとカルタゴのハンニバルが正面対決したザマの戦いはもはや伝説。
現代で言えば、戦車にあたるカルタゴ側の象の攻撃を、常識はずれ(言われてそうか!と思う)の戦法で、見事にかわしたスキピオの作戦には圧巻。完全なる作戦勝ちで、兵数の劣るスキピオがハンニバルを敗りました。
ザマの戦いは、本で読みましたが、本もいいけど、BBCの再現映像とはいえ、動画で見た方が、よりイメージが沸きそう。しかし、日本が縄文土器とか作っている時代に、すでに軍艦があったり、元老院だの同盟国だの政治システムまで整っていたローマは、ほんとスゴイ。
浴場遺跡の横のお土産屋さんで見つけた象と兵隊。上に乗っているのはハンニバルかな?さすがカルタゴならではのオブジェです。
第二次ポエニ戦争は、カルタゴ側から仕掛けたため、ローマとの戦争になっても仕方がない。スキピオとハンニバルとの激闘の末に敗れたカルタゴは、ローマとの間で、ローマの許可なしに、カルタゴは他国と戦争をしないとの条件で講和します。
しかし、その後の政治問題で、カルタゴはローマの許可なしに他国と戦争をしていまいます。カルタゴは、この行為に対し、反省しローマに講和を求め、それでも納得しきれないローマに対し、最後は無条件降伏のような形でローマと講和を計りました。
ただ、港町であるカルタゴに対し、海から15km離れた場所に都市を築くとの案には、納得がいかなったり、弱腰の国の対応に、市民の怒りも爆発。兵士のみならず、一般市民も武器を持って、ローマがカルタゴに攻め込んできたら戦う!という流れとなります。
対するローマ側は、カルタゴの対応はもちろん、第二次ポエニ戦争で、ローマに多大な被害をもたらしたハンニバルのような才能の人物が再び現れたら・・・という懸念材料もあり、第二次ポエニ戦争の英雄であるスキピオ・アフリカヌスを義理の叔父に持つスキピオ・アエミリナヌス指揮の下、ローマの元老院の指令により、カルタゴを落城させる運びとなりました。
スキピオは、カルタゴの軍港から、カルタゴに上陸。
7日間の市街戦の上、徹底的に町が破壊されます。最後は、神殿の建ち並ぶビュルサの丘の炎上で、戦闘が終了したようですが、奴隷になるより死んだ方がマシという人たちは、燃え上がる神殿に自ら身を投げた人も多数いたようです。
この第三次ポエニ戦争後に、奴隷にされたカルタゴ人は、5万人ほど。寛容主義で、ローマに負けた国もローマの同盟国にする方法で、エトルリアやギリシャ、そしてカルタゴに比べると、小さな国家から始まったローマも、この戦争後は、地中海世界の覇者になるまでに巨大帝国となりました。
第二次ポエニ戦争の後は、ローマとの講和で平和に過ごしていたカルタゴ。その後、他国と戦争をしていなければ、、また講和を求めたローマの15km内陸に都市を築くという条件を受け入れていれば、第3次ポエニ戦争ば勃発せず、カルタゴは滅亡することはなかったかもしれません。
敗者の文化や政治も尊重するローマが、徹底的に街を破壊し、市民を奴隷化するのは、この戦争の直前のコリントとの戦いに続いて二度目。これ以降、ローマは帝国主義のような形になっていったというように解説している書籍もあります。
700年もの間、繁栄してきたカルタゴですが、今まさに自らの手で落城し炎上、滅亡していくカルタゴを見て、スキピオは涙を流したそうです。当時の記録として現代にも残っているようですが、ラテン語なんて読めないので、ローマ史を解説した本を読むのが一番早い。その時の、スキピオの言葉ですが、簡単に言うと
「栄華を誇ったカルタゴの滅亡という歴史的な瞬間に立ち合っている。私の胸にあるのは、勝者の喜びではなく盛者は常に必衰、ローマもいつかは同じ運命をたどる。」
現代に生きる私たちは、ローマがいつ滅びるのは知っています。この時点では、またまだローマは始まったばかり。ローマ滅亡なんてまだまだ先の話で、あのユリウス・カエサル、英名ジュリアウス・シーザーの登場で、さらにローマは飛躍的に拡大していくことになります。
ちなみに、漫画テルマエ・ロマエの4巻でカエサルがちょっと登場。小達さつきが、母親からのアドバイスで、質実剛健な男性を選びなさい!との教えのもと、小学生の時に、たまたま読んだローマ史で、まさに質実剛健な男「ユリウス・カエサル」を知ることになります。
その後、小達さつきが古代ローマにはまってく様子は面白い。小学校の授業で、SPQRの文字を入れたエプロンを作り、それどういう意味ですか?と先生に突っ込まれるネタが最高。
モザイクにSPQR。(この写真はチュニジアではありません)
SPQRは、ラテン語でセーナトゥス ポプルス クェ ロマーヌス。元老院ならびにローマ市民のことで、現代の「レディース アンド ジェントルマン」のように、演説の頭の挨拶にも使われたようです。
地中海世界を制覇したローマですが、チュニジアの地でもたくさんのローマ遺跡を見ることができました。アフリカの地でありながら、ローマの影響の残る今回のチュニジア旅行は、いろいろと勉強になり、楽しむことができました。
長々と書いてきたチュニジア旅行記ですが
チュニジア旅行の観光スケジュールも以上で終了。
最後の昼食は、海岸に面したこちらのレストランで。
海を見ながら最後に一杯。
帰国後は、飲めるチャンスもないと思うので、チュニジア産のマゴンを飲みました。
メニューはこちら。
春巻き。
デザートのアイス。
海の似合わぬ男、南の島に行くイメージがない(実際、ハワイ、グアムは、まだいったことないです)とよく言われるマーヴェリックが、帰国直後に地中海をバックに記念撮影♪
いろいろあったチュニジア旅行も終わりを告げ、空港へとやってきました。
チュニスからドバイ便の機内食。飛行時間は約5時間。
ドバイの空港に到着しました。相変わらず設備が豪華。空港内に、日本庭園含む、さまざまなスタイルの庭園がありました。
しかし、待ち時間が5時間もあるので、プライオリティパスで入場できるマルハバ・ラウンジで、持参したノートPCでネットして時間を潰していました。
ドバイから成田は11時間前後。
二回目の機内食。
エミレーツ航空は、機内の設備が豪華。暗くなると、天井は星を表現したライトで幻想的な空間へと生まれ変わります。個人モニターも画面も大きくて液晶の解像度も高くてキレイでした。
成田の第一ターミナルに到着したときは、バス乗り場前の庭園をいつも撮影していますが、今回は第二ターミナル到着なので、画像はありません。
ってことで、過去の旅行記より。この広場は、シーズンごとに変化を楽しめます。春は桜も咲きます。
気が付けば、今回のチュニジア旅行は、旅行記最長の38記事も書いてしまいました。それだけ、チュニジアは奥が深かったということだと思います。古代ローマ史には欠かすことのできないカルタゴの遺跡を見られるチュニジア。ローマ好きの方は、楽しめると思いますのでオススメです。
次の旅行は、7月に台湾、10月はポーランド、エストニア、ラトビア、リトアニアを予定。マイル消化も考えて、11月にパリに行って、ルーブル美術館やベルサイユ宮殿に1日中引きこもって、細部の細部まで鑑賞するというのも興味あります。
その前に、まずは徹底的に仕事ですね。年数回の旅行をカテに、普段週7日労働に耐えていますw
世界は広く、まだまだ知らぬことだらけ。
マーヴェリックの旅は、これからも続きます。